愛する君に

 柚香は、澪が忘れていったぬいぐるみを拾おうと屈み込んだ。
「志郎、私、とても非道いことを言ったわ――」
 けれど、まだ言わなければいけないことがある――。

 ぽつん、と柚香の乾いた声が部屋に響いた。
「あの戦いの後、帰還した19人の中に貴方の名前をみつけたとき、どれだけ――」
 言葉を切った柚香は、恋人に背を向けたまま立ち上がった。
「でも、私は軍人じゃないから。だから、こんなことが言えるのよ。だって、私はその場にいなかったんだもの」私は、貴方がいれば、生きていられるんだもの――。
 その恋人に、こんなことを言いたくなかった。けれど、言わないわけには、いかないのだ。
「――柚香?」
 真田が立ち上がり、柚香の肩に手を置いた。一度短くなった黒髪は、時間と共にまた柚香の背の中ほどにまで届こうとしている。ガトランティスの炎が地上を焼いた時に、願を掛けた木を守ろうとして柚香は大きな怪我を負い、髪も切らざるを得なかったのだ。

「志郎。逝ってしまった人たちを、貴方が引き受けようとするのはいい。それは貴方の選んだ道だわ。だから私は何も言わない。貴方が、したいようにすればいいと思う。でも、でもね」
 しばらく黙っていた柚香が、静かに振り向き、哀しそうな表情で背の高い恋人を見上げた。
「お願い。逝ってしまった人たちの分まで幸せになって欲しい、なんて澪に対して思わないであげて。あの子の人生は、あの子のものだわ。それを、引き受け引き継ぐかを決めるのは、もっと、ずっと先のことでいい。
 あの子に、これ以上何も重ねないで――。あの子は、あの能力ちからでみんな受け止めてしまうから。
 だから、お願い。あの子をこれ以上、追い詰めないで――!」
「柚香――」
 ごめんなさい。志郎、ごめんなさい。ごめんなさい――。私はとても非道いことを言っているわ――。
 真田は、今にも泣き出しそうな恋人を見つめ、そして、その細い肢体がしなるほどに、力を込めて抱きしめた。
 抱き寄せた恋人の髪から、オレンジの香りが漂う。真田は、震える恋人の名を呼んだ。
「柚香――」

 たぶん、同じ思いを潜り抜けてきたのだろう、ということは察することができた。柚香には、亡くした子らとさほど歳の変わらない、腹違いの弟がいる。
「柚香――」
 囁くような真田の呼びかけに応じるように、柚香の震えが次第に納まってゆく。
「柚香――」
 真田がゆっくりと腕の力を抜くと、柚香もまた、ゆっくりと顔を上げた。
「志郎――」
「いろいろと、すまなかった。たぶん、もう大丈夫だ」

 腕の中の恋人に、真田は笑みをおとす。柚香は、何も言わずにそれを見つめていた。

 優しく微笑んだ真田のそれが、自分だけに向けられたものなのだと気付いたのはいつだったろう。
 ねぇ、貴方が大切に思ってくれてたこと、私、ちゃんと知っていたわよ――?
 言葉にならない想いを胸に抱えたまま、柚香はその広い胸に身を委ねた。

 その夜、娘の寝顔を見つめながら優しく交わされたキスがあったことを、澪は知らない。
 そしてまた、星降る夜空を切ない瞳で見上げた男がいたことも知らなかった。
 澪はただ、夢も見ずに幸せな眠りに就いた。

 翌週、イカルスを訪れた古代と共に、“こどもの日”は祝われ、そうして、季節はずれの年中行事は、できる時にできる形で折々に行われたが、澪が熱を出すことはなくなった。
 束の間とはいえ、確かに幸せな時間がイカルスには流れていたのだ。

 これからやってくる冬の寒さを忘れさせるような小春日和のように――。

fin.
21 JAN 2010 ポトス拝
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