愛する君に
ねぇ、目を閉じてみて?
柔らかな柚香の声に、躊躇いつつも真田は目を閉じた。
「お母さんを思い出してみて? 懐かしい、慕わしいその人を、思い出してみて」
柚香の声が優しく耳に響いた。
「何を思い出す? 誰よりも大好きだったよね?」
真田の脳裏に、母の面影がぼんやりと浮かんだ。
「誕生日にケーキを焼いてくれた? クリスマスにプレゼントをくれた?」
違う。真田はその姿を捉えようと、目を凝らした。
四肢を無くした後、運動会で初めて走りきった徒競走。
走り切れたことも嬉しかったが、それが嬉しかったのは、母が両手を広げて待っていてくれたからだ――。
おかあさんっ!
抱きついた胸の温かさも、すり寄せた頬の柔らかさも、懐かしい慕わしい匂いも――。元気に駆け回っていたあの頃も、四肢を失ったあの頃も。受け止めてくれる母はいつもそこにいた。どこまで走っていこうと、振り返れば母はいつもそこにいた。
その母が居なくなった時の、あの喪失感は今思い出しても胸を抉られるようだ。
真田は静かに目を開けると、隣りに立つ恋人を見つめた。
「愛が自分に注がれることを待つものじゃないとは思うけれど、でもね、注ぐだけのものでもないのよ?
ねぇ。あの子の想いも、ちゃんと受け止めてあげて――。
あの子は、貴方の想いを受け止めてくれているでしょう? あの子も心から貴方を愛しているのよ?」
「古代さん――」
柚香は、再びモニタに顔を向けた。
「イスカンダルではその高度な科学技術に反して、生後1歳までに亡くなる割合が地球とは比較にならないくらいに高いわよね?」
イスカンダルからの資料の整理に携わっていた柚香だからこそ、知っている事実もある。
「その原因はいろいろあるようだけど、精神と身体のバランスが崩れてしまうことも大きな問題のひとつだったわよね?」
古代は、無言で頷いた。
「私は医療のプロでも、生物学を学んだわけでもないから、確証があっていうわけじゃないんだけどね。
あの子の時間が、私たちとは違った速度で流れていることはわかるわ。
知識の広がりは、意識の広がりを生むものね。私たちが17年かけて広げ、受け入れることを、たった1年で済ませてしまう。
それは、睡眠学習を導入した貴方がたには、既に考慮済みのことでしょうけれど、でも、ね」
ふと、真田は思い至る。
四肢を失った後の、永遠に続くように思えたあの時間さえもが、澪にとっては、一瞬で過ぎゆくものなのか――?
ぞくり、と寒気が走った。
あの娘は何を見、何を聞き、何を感じているのか。
澪に想い出を作ってやりたいと思うのは、俺たちの傲慢なのかも知れない。
あの子に“今”必要なのは、“想い出”ではないのかもしれない。
「古代さん」
そこで一端、柚香は口を噤んだ。察したように、古代が口を開く。声が、掠れていた。
「構わない。言ってくれ――」
柚香は躊躇い、そして、決意したように顔を上げた。
「古代さん」
再び言葉が途切れる。だが、柚香は顔を背けなかった。
「古代さん。どんなにサーシャを愛しても、スターシアさんは帰ってこないわ――」
ぎり、と唇を噛んだ音が聞こえるような気がした。古代の唇が切れ、赤い血が僅かに流れた。
ごめんなさい――、と柚香は目を伏せた。