愛する君に

 長い、時間が流れたような気がした。

 シャッと通信室の扉が開く音がして、ふたりは驚いて後ろを振り返った。
「ゆずちゃん、どこ?」
 古代の送ってきた大きなくまのぬぐるみを抱えた澪が、泣きべそをかいていた。目を覚ましたものの、ベッドサイドに誰もいなかったことが不安だったのだろう。
「澪、ごめん。起きたのね?」
 その声に顔を上げた澪の目が、柚香を通り越してモニタに吸い寄せられた。
 ぱあっと、その顔が明るくなった。
「おとうさま!」
 持っていたぬいぐるみを投げ出して、澪は、モニタに向かって真っ直ぐに駆けた。

「おとうさま!」
 満面の笑みをたたえる娘とは対称的に、古代は今にも泣き出しそうだった。
「サーシャ…」
 そう呟くのが精一杯だ。澪は、大きな目をこぼれ落ちそうなほど見開いた。
「どうしたの、おとうさま? どうして泣いているの? かなしいの? お腹がいたいの?」
 いいや、違うよ、と首を振る古代の顔は、精一杯ポーカーフェイスを作ろうとしていたが、ぎこちなく口の端を上げただけだった。

「澪。こいのぼりのお礼を言うんじゃなかったの?」
 柚香に促されて、澪はハッと思い出したように口を開く。
「あのね、お父さま、こいのぼりをどうもありがとう。もう食堂にたててもらったのよ」
 古代の様子が気になるものの、一旦口を開くと留まるところを知らなかった。
「えっと、ふきながしが一番うえで、2番目がおとうさんで、3番目がおかあさん。それから、小さなこいがこどもなのよね。とってもキラキラしててきれいなの。あ、そうだ。あのね、今度、幕さんが“ちまき”と“かしわもち”を作ってくれるんだって」
 父親からのプレゼントをどんなに喜んでいるのかは、一目瞭然だった。
 屈託もなく笑う娘をみつめていた古代にも、ようやく笑顔が浮かんだ。

「サーシャ、お願いがあるんだ」
 話が区切れたのを引き取るように、古代が口を開く。
「なあに? おとうさまのおねがいなの?」
 古代は、ああ、と頷いた。
「その柏餅を食べるのを、少し待っていてくれないかな。そう、来週までだ。お父さんは、サーシャと一緒に食べたいんだ」
 え? どういうこと? 
 きょとんと榛色の瞳を見開いて、澪が真田を振り返った。
  「古代が、来週ここに来るんだそうだよ、澪」そうだな? と真田は古代に視線をやった。
 ぱっと光が射したように、澪の顔が明るくなった。慌ててモニタに向き直る。
「本当? おとうさま、ほんとうに、ここにきてくれるの?」
 頷く古代を見て、澪は飛び上がって喜んだ。
「じゃぁ、澪はそれまでにいっぱいお勉強をしておかなくちゃ。そうしたら、おとうさまといっぱい遊べるでしょう? 義父さま、みお、明日のぶんも、いっぱいいっぱいお勉強するね」

 澪の言葉が、真田の胸に響いた。
 この義娘義父おれに誉めて欲しいのだ。こんな俺に――。
 今度は真田が首を振る番だった。
「あぁ、済まないね、澪。今日は休みにしよう」
 どうして? と澪は大きな目を見開いた。
「機械が壊れてしまってね。明日までにはちゃんと直しておくから、待っていてくれるかな」
 うん。でも、それじゃおとうさまとは遊べないの? 澪が不安そうに真田を見上げてきたので、いいや、ともう一度首を振ってみせた。
「大丈夫さ。その時は古代に教えてもらったいいんじゃないか?」
 うわーい、と喜んだ澪が、ハッとした。
「あ、あたし、かしわもちはまだ作らないでって、まくさんにおねがいしてくる!」

 ひゅっとつむじ風のように駆け去っていった娘を見て、残された3人は苦笑した。
「あのそそっかしさは、どうみても古代おまえ譲りだな」と真田が言えば、
「バカ言え。真田おまえの育て方の問題だ」と、古代が顰め面を作って見せた。

「古代さん――。ごめんなさい。私――」
 いや、とかぶりを振った古代が柚香の言葉を遮った。
「ありがとう――。これからも、よろしく頼むよ。サーシャのことも、そいつのことも、ね」
 そう言うと古代は優しい笑顔を浮かべ、そして、ぷつんと回線は切れた。暗くなったモニタには、残されたふたりの姿が映っていた。

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