月明かりの夜に
程なく住んでいるマンションの前に到着する。
「送ってくれてありがとう。珈琲でも飲んでいく?」
柚香がそう尋ねたが、男を部屋に上げるような時間ではないことに真田は気付いた。
これは信頼なのか、誘惑なのか。
初めて疑問に思った。
決意を促す為の駆け引きだろうか?
返事がないことに、柚香はきょとんとした表情(かお)をした。
いや、そうではない。これは駆け引きではない。たぶん、柚香本人にもわかっていないに違いなかった。お蔵入りと決めた気持ちの隙間から溢れ出してしまう、ささやかな願いなのだろう。
気付かぬふりをすれば、いつも通りに事は運び、いつものように笑って別れるだけだ。
柚香はほんの少し小首を傾げた。
真田はその仕草が好きだった。
そっとその頬に触れてみた。産毛の光る柔らかい頬に。
俺は弱い人間だ。
他人の持ち得ない頭脳を持っていても、本来、持って然るべき勇気を持っていない。
一度得たものを失うのは辛い。
そのことは身に沁みて知っている。
家族も、この身体も、友も、恋も、希望も。
だが、あの蒼い星で、罪を犯したこの手が希望を掴んだとき、俺にも生きる意味があるんじゃないかと思えた。
あの旅と戦いが、俺に生きる意味を教えた。
だから、俺は今ここにこうして在る。
「柚香」
余程驚いているのだろう。柚香は、大きな目を瞠り言葉も失っている。
「すまない」
手を離しながら、真田は言った。
柚香は目を見開いたまま、更に首を傾げる。
「すまない。嘘を言った。店の前で声をかけたと言ったのは嘘だ。店の中にいた。
――キミたちが来る以前から」
え、と声が零れ落ちる。
「すまない。話は全部聞いていた」
少しの間、息を止めた柚香だったが、思い出したようにホッと息を吐き出すと困ったように微笑み、俯いた。
「そう。聞かれちゃったのね」
村井はたぶん気付いていたのだ、真田がそこにいることを。
「迂闊だったわ…ごめんなさい」
柚香は俯いたまま、謝罪の言葉を口にした。
柚香、キミが謝ることは何もない。
謝るべきは、俺だ。
「俺が弱いばかりに、すまなかった」
「志郎…?」
柚香の瞳が星のように揺れる。今にも消え入りそうな、こんな表情を見たのは初めてだった。
キミはいつだって揺らがぬ大地のような女(ひと)かと思っていた。
きっとキミは知らないだろう。
古代の艦・ゆきかぜが撃沈した時、俺に絶望から這い上がる力をくれたのが、小さな握り飯だったことを。
「初めに言っておく。俺は見合いなど、していない」
柚香はちょっと困ったように微笑み、頷いた。
「今は誰とも家庭を持つつもりはないからだ。仕事も忙しいし、とてもそこに時間を割く余裕はない。実際、縁談が持ち込まれたことがないわけではないが、とても…」
「…志郎?」
「第一、ようやく自宅へ帰って寝られるようになったばかりで」
「志郎!」
気が付くと、柚香が腰に手を当て、真田の顔を覗き込んでいた。そこにさっきまでの消え入りそうな風情はない。
「貴方は生涯を独身で過したいの?」
「い、いや。そこまで明確な意思はない。今はその余裕がない、というだけで…」
こんな柚香も初めて見た、と驚いた。
「だったら、志郎。今、話をすべきはそこじゃないわよね? 大体、貴方に今すぐ結婚を迫るほど、バカじゃないわよ。そんな余裕がないことくらい、見てればわかるわ」
しまった、と思う。どうやら話の入り口を間違えたらしい。天才科学者の頭脳をもってしても、男女の機微をうがつのは至難の業だ。
「あのね、最初に確かめなきゃいけないのは、お互いの好意よね? 次に、年齢的にも立場的にも、結婚を前提とした交際の意思の確認、でしょう?」
「あ、ああ」
確かにその通りだと思い、慌てて頷いた。
「もう知っていると思うから、はっきり言うけど。私は貴方を愛しているの。これからの人生を一緒に過ごしたいと願っているのよ」
「柚香…」
身も蓋もない、ムードもへったくれもないものの、それでも愛の告白に違いない。
「それで、志郎。貴方は?」
迫力満点の告白に、思わず後ずさりしたくなった真田だったが、ふと、柚香の指先が小さく震えていることに気付いた。
刹那、真田は柚香を抱き寄せ、囁く。
ふにゃ、と柚香の表情が崩れ、身体から力が抜けた。
「結婚を前提として交際を始めるということでいいんだな?」
柚香の声は、包まれた腕の中に埋もれて、消えた。
やわらかい肢体を包み込むように力を込めると、縋り付くように細い腕が背に回された。
ゆらり甘い香りが立ち上り、腕一杯に広がるその香りに満たれる。
「柚香」
答えは返らない。
「こんな男を選んだことを後悔しても、もう遅いからな。俺は一度掴んだものは決して離さない」
柚香の肩がぴくりと動き、小さな呟きが返った。
「バカ」
そのひとことが何故か無性に嬉しかった。
「ああ、確かに俺はバカだよ。だがな、キミも大概だぞ」
抱き留める腕に力を込めてみた。
くすり、と小さく笑った気配がし、柚香が顔を上げた。
「珈琲、飲んでいく?」
いつものように、尋ねるが。
潤んだ瞳で見上げる笑顔は、かつて見たどんな時よりも幸せそうだと思えた。
その桜色の頬にキスを落としたら、キミはどんな表情をするだろう。
「ああ。できればメシも欲しい。腹が減った」
「大したものはないわよ?」
「握り飯があると、嬉しい」
柚香は返事の代わりに、極上の笑顔を見せた。
珈琲を飲み終えるより先に藤咲から緊急コールがあったのは、真田には嫌がらせとしか思えなかったが。
別れ際、小さなキスを落とすと、柚香は一瞬驚いた表情をし、桜色に頬を染め上げ笑った。
その笑顔をこの腕に留めておきたくて、今度は優しく口づけた。
科学局への道すがら、真田は星の瞬く空を見上げる。
古代。
もしも俺がお前だったら。
俺は、スターシアを地球へ連れて帰ってきたよ。
説得は困難を極めたろうが、俺は諦めない。
そうだ。
俺は、この手に掴んだものをもう決して手放したりしない。
何があろうと、守り抜いてみせる。
地球も。仲間も。彼女も。
お前、涼しい顔して案外欲張りだよな。
友の笑う声が聞こえたような気がして、真田は笑顔を夜空へ向けた。
23 SEP 2009 written by pothos
(08 SEP 2014 加筆修正)