月明かりの夜に
こんな夜更けに人気のない公園を通ることは勧められない。
政府は都市の治安に殊の外力を入れていたが、この時間帯になってしまえば、地下都市時代のそれとあまり変わらなかった。もっとも、それを無事生き抜いてきたきたからには、対応できるだけの術を各人が備えているという事ではあったが。
柚香はそういう事情をまるで意に介する様子もなく、すたすたと奥へ向かって進んで行く。
真田は気付かれるのを覚悟しつつ、少し距離を縮めた。何かあってから後悔したくはない。
薄暗い、茂った木の下を影のように歩みを早めた。
だが、そう広い公園ではなかった。程なくそこを通り抜けると、ぱっと視界が開けた。
思わず真田は足を止めた。
そうか、これが見たかったのか。
真田は得心した。
おそらく、ここは彼女の気に入りの場所なのだろう。高台にある公園の端は切り立った石壁になっており、目の前はゆったりと開けている。眼下には家々の灯火も見える。
そして、中空には丸い月。
風が雲を流し、明るい月が顔を出していた。
月の光とはこんなにも明るかっただろうか。
真田は目を細める。
月明かりが、柚香の後ろ姿を照らしあげる。瞬間、その姿が輝くように見え、目を瞬かせた。ぬばたまの髪は縁が淡く光り、思わず息を飲む。そこに月へ駆け行く天女の姿を重ねてしまい、何を莫迦なと頭をひとつ振ると幻影を振り払った。
人間が飛んでいったりするものか。
だが。
少しの間月を見上げていた柚香は、おもむろに前へ進むと石段を乗り越え、ぴょんと飛んだのだ。
一瞬で、その姿が消えた。
「柚香っ!」
驚き叫び声を上げた真田は、今しがたの幻想に惑わされ、思わず月の浮かぶ夜空に目を凝らしてしまった。いやいや、と頭を振ると、さっきまで彼女のいた場所へダダッと駆け寄り、石段から身を乗り出すようにして見下ろした。
「柚香っ!?」
そこには、思わぬ呼び声に驚いてこちらを見上げる柚香がいた。
その姿を確認すると同時に、真田も後に続いてそれを飛び降りた。
2、3mと謂ったところか。二階の窓から飛び降りたほどの高さで、これなら間抜けな降り方さえしなければ大怪我はするまいと、軍人である真田には思えたが。
柚香の隣りに着地すると、思わず大声をあげていた。
「一体、キミは何をやっているんだ!?」
ぱちくり、と目を見開いた柚香は、零れ落ちそうな瞳で答えた。
「これくらいなら飛べるし、気持ちがいいから、いつも…」
予想はしていたものの、その返答に呆れ、額に手を当てたい心持ちの真田だった。
「大体、こんな時間にこんな場所へひとりで来る危険性をどう考えているんだ!? 呑気なのにも程がある!」
叱りとばすその口調の厳しさに、柚香は身を竦めた。
「ご、ごめんなさい…」
わけのわからないままに謝ってみた柚香だが、上目遣いにちらりと視線を上げた。
「怪我は?」
詰問するような真田の口調と視線に、柚香は無言で首を振った。
「全く猫みたいだな、キミは」
力が抜けるように安堵の息を洩らし、ホッと笑う真田に、柚香もようやく肩の力を抜く。
「貴方はどうしてここに?」
きょとんとした顔で、柚香が尋ねたのは、至極当然の成り行きだろう。
「店を出てきた時に声をかけたが、気付かなかったろう? この酔っぱらいは」
用意しておいた言い訳を、真田は口にした。
「え? 店ってまさかブルームーン? 私、気付かなかったの?」
驚いた柚香の問いかけに、真田は“沈黙以上の雄弁は無し”とばかりに視線を送った。
無論そんな事実はどこにもなく、身に覚えのない柚香は、しきりに首を捻る。
ほろ酔い気分だったことは認める。だがそこまで酔ってはいなかった。と、思うのだけど。
納得できない様子の柚香が質問を口にする前に、真田はさっさと帰るぞと先に立って歩き出してしまった。
石畳を過ぎ、歩道を歩く。
まぁいいか、と気を取り直してご機嫌な柚香を隣りに見ながら、真田は歩く。
何をしていたのかとも、どこへ行くつもりだったのかとも、柚香はそれ以上尋ねなかった。ただ、その様子からこの唐突な状況を喜んでいることは伝わってきた。
真田もまた、身の裡が次第に満たされていくのを感じていた。
月明かりに照らされて、ふたり一緒に歩くその道のりが心地好く、ただそれだけの時間がひたりと心を満たした。
このまま、この道がずっと続けばいい。
そう思うそばから、それではまるで中学生のようだと苦笑してはみたものの、こうしてふたりで歩いていれば、月までも行けそうな気がした。
また、そんな自分を笑ってみたくなった。