月明かりの夜に
程なく、仲間たちがやってきた。
何事もなかったように村井が手を挙げる。
「お疲れ様」と近寄ってきた男が声をかけた。
「お−い、柚香サン。帰り際に資料室から呼び出しがかかってましたよ」
「資料室って、どこの?」
「科学局です。主様、ご指名です」
やだ、私何かしたっけ? と首を捻ってみるが、差し当たって問題になりそうな心当たりはない。
「逆ですよ。局長指定の資料が見つからなくて泣きついてきたんです」
仲間たちがドッと笑った。
「私、明日休みなんだけど?」
一応顔を顰めてみる。
「そこをどうにかって。館長の許可も出てます。真っ直ぐ科学局の方へ行っちゃってください」
はあい、わかりましたと言いつつ、柚香は腰に手をあて首を傾げた。
「半日で済んでくれるといいんだけどなぁ」
「うーん、無理じゃないですか? 科学局じゃ相当困ってるみたいでしたよ」
「え、それホント? やっと一段落した処だっていうのに」
「頑張れ柚香サン! みんな応援してますよ〜」
「じゃ、一緒に行こ?」
「お断りでーす」
「もうっ」
軽口を叩き合う様子は、皆、愉しげだった。
誰もがその職務に誇りを持っている。そして、それがあの英雄と言われる人物の役に立てることも、喜びなのだ。
「明日の柚香サンを祝して乾杯!」
村井の声に、皆が杯を掲げた。
「じゃ、お先」
明日に備える柚香は、皆よりも早めに店を出た。それでも、飲んだ酒は1杯や2杯ではない。柚香は酒に強い。
少しばかりご機嫌な様子で、鼻歌を歌いながらひとり夜道を歩く。当然、後ろから付いてきている男のことなど、気付くはずはなかった。
もっとも、真田にも後を付けているという意識はない。ほろ酔いの柚香を送っているつもりだ。
夜道をひとりで歩くのはこの時期それなりに物騒だが、どうやらそれが常態らしく、彼女を強固に送っていくと主張する男はいなかった。
そのことにホッとしつつ、だが、ひとりで帰す気にはなれない。
たとえ、ここから彼女のマンションまで十分歩ける距離であったとしても。柚香が護身術を身に付けている事を知ってはいても、だ。
真田が店を抜け出したことに気付いたのは、村井だけだった。
前を歩く柚香の先に広がる夜空を、真田は見上げる。
朧に月がかかり、星が煌めいていた。宇宙空間の星々とは違い、大気を通したその光は格別の美しさだと思う。星の瞬きが大気の揺らぎを認識させ、記憶の中にのみ存在していた夜空とそこにある過去の風景を呼び起こす。
それが生きて帰郷したという実感をもたらした。
時折、柚香も足を止め空を仰いでいる。そこに何を思い描いているのかは、さすがの真田にもわからない。
ただ、その後ろ姿はやけに頼りなげに映った。
柚香は男並みの長身だが、その肩も腰も華奢だった。軍人を見慣れている真田の目には余計か細くうつる。
その後ろ姿に、かつての風景を思い重ねた。
柚香は決して料理上手ではなかったが、彼女の握った飯は旨かった。ふっくらと炊いた白いご飯に塩をまぶし、ただ海苔で包んだだけの握り飯。絶望が支配していた地下都市で食べたあの味を、今でもはっきりと覚えている。
旨いと言ったときに向けられる笑顔も、また、鮮やかに。
俺はどうしたらいいのだろう。
真田は拳を握りしめる。
この手が、今、彼女の未来を握っている。
分岐点なのだと思っていた。
このままでいれば、彼女をこの人生に巻き込むことは、回避できると思っていた。
お蔵入り。
それは彼女の平穏な人生を意味していたはずだった。
だが。
真田は握りしめた拳に、更に力を込めた。
一方、柚香はご機嫌だ。
通り沿いの店に明かりが灯っているが、人通りは少ない。何事もなく部屋に帰着できるだろうと真田が考えた途端、柚香は細い路地を人気のない方へと進んだ。
(どこへ行く気だ?)
真田は訝しんだ。
この新しい都市は日々成長を続けている。都市計画にも無関係ではない立場上、街のおよその地形は頭に入っていたが、その詳細まで把握し続けることは不可能だ。
確か、1週間前この先は高台で公園になっていたはずだが、と頭の片隅から最新のデータをひっぱり出した。
天才の記憶力に誤りはない。
そこには、記憶通りの公園が存在した。