茶葉の香り
彼を支えていた兄が亡くなったのだ。
火星宙域における戦闘による爆死。
謎の敵と交戦した防衛軍に為す術はなく、艦隊は全滅だった。砲術員だった沙羅の兄は即死で、あまりの遺体の損傷に対面した母親はその場に倒れ伏したという。
一週間後、軍による合同葬儀が営まれた。
収容できなかった遺体も多い中、沙羅は遺族席で母親を支えていた。父親は数年前に事故で亡くなっていた。
薔子たちが花を供えようと進み出た時、鬼のような形相で猛然と突進してきた婦人がいた。咄嗟に姉をその背に庇った康雄は、投げつけられた花と罵声を、その身にまともにあびることになった。
「南部のせいよっ! ろくでもない艦なんか造るから! 人の命を守れないようなものを造っておいて、自分たちはのうのうと暮らしているなんてっ! あんた達はハイエナよっ! あの子を返してっ!!」
その婦人はすぐに取り押さえられた。康雄たちには謝罪がされ、その後、葬儀は滞りなく営まれた。
理不尽な仕打ちだということはわかっていた。大切な人を失った哀しみが、行き場のない怒りが人を狂わせるのだということも。
だが、その言葉は康雄の心を深く抉った。
そして、沙羅は学校を辞めた。一家を支えてきた働き手を失い、辞めざるをえなかったのだ。
康雄は援助を申し出たが、沙羅はそれを拒絶した。
「兄さんの死と君は関係ないよ」と、微笑んだ。
「ねえ、僕が初等部に転校してきた頃、君、いじめられていたところを助けてくれただろう?」
沙羅は懐かしそうに目を細めたが、康雄はそのことを全く覚えていない。沙羅は、そんな君だから、と笑みを重ねた。僕を庇ってくれたのは、後にも先にも君だけだったよ。
「僕はね、いつまでも君と友だちでいたいんだ。今ここで君の援助を受けてしまったら、僕らはもう友だちじゃなくなってしまうだろう」
幼い結論だったと、時が経つほどに康雄は思う。
だが、本当にそれが全てだっただろうか。
兄を死に追いやった南部の援助は受けたくない――沙羅は決して口には出さなかったが、そう考えていたのではないか。
康雄も薔子もまた、それを口にすることはできなかった。
「何の用事だったか覚えていませんけどね、小さい頃、父さんと一緒に港に行ったことがあったんです。
港には、真新しい最新鋭艦が並んでいて、その姿がとても格好良くてね。しかも、その腹に『NAMBU』と書いてあるのをみつけて、僕はもう、嬉しくて嬉しくて。『NAMBU』の艦だね! ってそう父さんに言ったんですよ。
そうしたら。
『ああ、そうだ。あれがNAMBUだ。いつかお前にもわかるときがくる』
小躍りするばかりに喜んでいた僕にむかって、にこりともせずに、父さんはそう言ったんです」
「僕はずっと考え続けてきましたよ。でも、どうしてもわからない。だから、自分の目で確かめに行くんです」
康雄は静かに笑みを浮かべた。
「だから、これは沙羅への償いじゃないんです。そうじゃない。僕は僕のために、そうするんです」
間違えたくないのだ、と康雄は言った。
「何故、こんな目に遭わなきゃいけないのかわからないまま、誰かがこの穴蔵から救い出してくれるのをじっと待っているなんて、僕にはできない」
己れが己れであるために、己れの人生を自分の足で歩むために、弟は最初の一歩を踏み出そうとしているのだ。
――薔子はそれを留める言葉を持たなかった。
「まあ、何も明日から入隊するわけじゃありません。まだ時間はたっぷりありますよ」
お茶をもう一杯いかがですか? 康雄はそう言って立ち上がった。
だが、その日は瞬く間にやってきた。
荷物はもう送りましたから、と鞄ひとつを手に持った康雄が玄関に立っていた。
ぐるりと家の中を見回した。自分を育んできたものとの決別である。
それを見送るのは、姉ひとりだけだった。両親にはすでに挨拶は済ませた。ずっと世話をしてくれていたばあやたちは、そこにいることを遠慮した。
「体に気を付けて――いつでも帰ってきていいのよ…」
薔子はそう告げたが、弟はただ笑みを浮かべるばかりだ。
「じゃあ、姉さん。行ってきます」
弟はいつものように、飄々と、玄関を出ていった。
その行く手には、まがい物の、けれど青い空が広がっていた。