茶葉の香り

#2

「お父様!」
 バタンと大きな音をたて、薔子は書斎の扉を開けた。
 父の姿はそこにあった。
 壁一面の本棚を背に、どっしりとした黒檀の机が置いてある。
 地下都市に居を構えた際、父は地上の書斎をそっくりそのまま移したのだ。地上にいるかのような錯覚を覚えるこの部屋が、薔子は好きでなかった。
 ふるり、と小さく頭を振って叫んだ。
「お父様、康雄さんを勘当なさったというのは本当ですの!?」

「薔子、落ち着きなさい」
 いつものように机の前で書類に目を通していた父が静かに顔をあげ、豊かなバリトンの声を響かせて、取り乱している娘をたしなめた。
「お父様!!」
 娘はその言葉に逆上するが、父は娘の叫びにも微動だにしない。
「何も今すぐ出て行けと言っているわけではない。ただ、軍に入るというのでな」
 返事を聞いた薔子は、蒼白になった。
「お父様はそれをお許しになったのですか!?」
 現在の地球防衛軍が、迫り来る外敵に対して如何に無力であり、如何に危険な場所であるか知らぬ者はいない。
「許すも許さないも、決めたのは康雄(あれ)自身だ。覚悟の上のことに口を挟むつもりはない。こうして出ていく以上、まさか、逃げ帰って来られる場所があるとは思っとらんだろう」
「そんな…」
 薔子は言葉を無くした。

「あなた。そろそろお時間ですわ」
 母がそこにいたことに初めて気付き、薔子は愕然とした。
「お母様まで、お父様のなさったことに反対なさらなかったんですの!?」
 だが、母親でさえも、娘の叫びに耳を貸さなかった。
「――薔子さん。康雄さんは、ご自分で決めたのでしょう?」
「お母さま!」
 薔子は後ろも見ずに、部屋を飛び出したのだった。

「――本当に良かったのか?」
 背広を着せかけてくれている妻に向かって、大樹(たいじゅ)は言葉をかけた。
 妻・絹絵は静かな笑みを浮かべるだけだ。夫婦として暮らして20年以上が過ぎる。表に姿を現すことはないものの、常に夫を支え続けてきたこの妻がいてこその自分であり、会社であることを、大樹は骨の髄まで知っている。
「ここにいても、このままでは滅亡を待つばかりですわ。軍にいれば、或いは――」
 軍にいれば危険は増す。だが、事が起きたときには、軍にあることが有利に働くかもしれない。
 ないかもしれない僅かなその可能性に、絹絵は懸けたのだ。
「さあ、あなた。本当にお急ぎにならないと遅れますわよ」
 夫を急かす妻の言葉に、大樹は苦笑した。
「全く、お袋といい、君といい、この家は女で保っているようなものだ。
――薔子も、直(じき)だな」
 絹絵はそれには答えずに、そっと笑ったのだった。

「康雄!」
 さん付けで呼ばれなかったことに少しばかり驚きながら、机に向かっていた康雄はそちらに顔を向けた。そこにはその容姿だけでなく、声も、所作も誰よりも美しいと思っている姉が、大きな目を見開いて立っていた。肩で大きく息をしている。
 かつて、姉が家の中を走り回ったことがあろうか。こんなに取り乱した姿を見るのは初めてだった。
「一体何があったんですか? 姉さん」
 手に持っていたペンを机に置き、椅子に座ったままクルリと体を向けた。

 いつもと全く変わらない弟の様子に薔子は苛立ちを覚える。
 とはいえ、チッ、と舌打ちするような躾はされていない。尤も、この際そうした方が彼女の気持ちを代弁してくれたかもしれないが。
 つかつかと弟の傍へ寄る。
 椅子に座った康雄が姉を見上げるような格好になった。美しい眉が歪んでいた。

「康雄、貴方入隊するって…!」
 蒼白になってやっと絞り出した薔子の言葉を、ああそのことでしたか、と康雄は困ったように受け止めた。
「康雄。お願いよ。考え直してちょうだい。軍に入るなんて――!」

 胸の前で組んだ両手を振るえんばかりに握りしめた姉をしばらく見つめ、康雄は静かに立ち上がった。その背に手を添えそっと促すと、姉は導かれるままに歩き出す。白く美しい手を取り、ソファへと座らせた。
「久しぶりにお茶を飲みませんか?」
 康雄は姉の返事を待つことなく、部屋の隅にあるサーバーへと向かった。

 ガラスのポットに水を汲み、火に掛けた。
 備え付けのラックから、白い陶磁器のティーポットとカップを取り出してお湯を注ぐ。カチャカチャと小さな音が、静かな部屋に響いた。
 待つこともなく、火に掛けたポットにはこぽこぽと泡が立ち上り始めた。温めたティーポットに茶葉を入れる。そして沸騰した湯を適量注ぐと静かに蓋をし、ティーコジーで覆った。

 お茶を淹れる弟の姿は端正だった。
 幼い頃は体の小さな子だったのに、今では薔子を見下ろすほどの長身になった。あの紅葉のような手は、いつの間にこんなにも大きくなったのだろうか。「おねえちゃま」と呼ばれていたのは、遙か遠い昔のことだ。
 薔子は小さな溜め息をホッともらした。

 蓋を開けると、紅茶が香りが立ち上る。
 スプーンで、ポットの中を軽くひとまぜした。茶漉しでこしながら、カップに注ぐ。白い陶磁器に、透き通るような琥珀色の紅茶が揺らめいた。

「どうぞ」
 弟から、それを受け取る。
 カップを近づけると、マスカットフレーバーと呼ばれるこのお茶独特の甘い香りが漂ってきた。口に含むと、その甘やかな香りとともに、ある渋みが広がってゆく。それは、決して味を損なうものではなく、豊かな深みを与えてくれているのだ。
 康雄は、《紅茶のシャンパン》と呼ばれるダージリン・ティの魅力を、余すことなく引き出していた。

「ごちそうさま。とても美味しかったわ」
 紅茶を飲み終える頃、薔子はいつもの薔子に戻っていた。

 姉さん、と呼びかけた弟は斜向かいのソファに腰を下ろしている。薔子は静かにカップをテーブルに置くと、すいと姿勢を正し、弟を見つめた。
「今この星に、今年つみ取った茶を口にすることができる人間がどれだけいるでしょうね」
 弟は真っ直ぐに姉を見つめていた。

 あの恐ろしい遊星爆弾がこの惑星を襲う以前、地上にはダージリン・ティだけをとっても、100以上の茶園が存在していた。
 春摘みのファーストフラッシュは爽やかな香りが特徴で、夏摘みのセカンドフレッシュは、ダージリンのクオリティシーズン。丸みを帯びたオータムフラッシュはミルクティに相応しい。
 だが、週に一度それぞれの茶園がオークションに出品し競い合ってきたという歴史は、このままでは昔語りになってしまうだろう。

「僕は来年もまたこのお茶を飲みたいですし、かといって、その日をただここに座って待っている気にはなれないんです。本当にやってくるかどうかわからないその日を、じっと待っていられるほど僕は辛抱強くないんですよ」
 弟は戯けて肩を竦めてみたが、そう言うのは嘘ではなかっただろう。
 だが、その心の中に全く別の想いが埋み火のように静かに存在することを、薔子は知っていた。
「康雄さん。貴方が戦場に立ったからといって、他の方の命が助かるわけではないのよ」
 姉の言葉に、康雄は静かに目を伏せた。
「――そう、ですね」
 声が掠れていた。

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