茶葉の香り

#3

 沙羅(さら)という友人がいた。
 康雄が通っていたのは、初等部・中等部・高等部と続く私学だった。そこに通うのは所謂上流階級と呼ばれる家の子弟だったが、この学校では秀でた才能を持つ人間の育成にも注力していた。沙羅は、50年にひとりと言われる競泳の才を持った少年だった。
 初等部の最高学年だった頃、ふとしたことで意気投合した二人は、以来親友と呼べる仲になっていった。康雄・沙羅と呼び合い、互いの家を行き来もしていた。
 地下都市への生活に移ってもそれは変わることはなかった。

 沙羅は、薔子を「お姉さん」と呼んで、本当の姉のように慕っていた。
 初等部の旅行で、僅かな自分の小遣いのほとんどをはたいて薔子にネックレスを買ってきてくれたことがあった。薔子の宝石箱の中には、他にないほど小さな小さなエメラルドではあったが。
 そんな沙羅を、薔子もまた、弟のように可愛がっていた。

 その沙羅が思い詰めたような目をしていたのは、この春の大会前のことだ。
 14〜15才と括られたグループでの活躍は特別な意味を持っている。国内大会から国際大会へとステップアップしてゆくために、また、この先も競泳を続けていくためには、どうしてもこの年の大会での実績が必要なのだ。

 地球は謎の敵からの攻撃に晒され続け、地下都市の生活は追い詰められつつあった。
 限られた日常生活の中で運動量を確保するため、水泳は有効な手段として用いられたが、それを競技として続けられるのは、ごく一部の人間だけだ。専用のプールや一流のコーチ陣を初めとするバックアップ体制の確保は簡単にできるものではない。
 だが、何よりも長引く地下都市での生活が、次代を育てようという意欲を社会から削いでしまっていた。

 沙羅の家庭は特別裕福なわけではなく、両親ともにサラリーマンという、ごく一般的な家庭であった。
 才能豊かな沙羅は、転校当時から特待生の待遇を受けてはいたが、それが全てを賄ってくれるわけではない。数少ない有能なコーチ陣の許で指導を受けようとすれば、その負担は大変なものになる。
 それを補っていたのは、軍人である10才年長の長兄であった。いつの時代も、軍はそういう若者の受け皿として存在する。
 兄の苦労に報いるためにも、沙羅は優秀な成績を修めなければならない。この春は、将来をかけた一年の始まりであった。

 康雄に誘われ、薔子は初めて沙羅の応援に訪れた。
 プールを見下ろすスタンドの椅子は固く、だが、そこは熱気に溢れていた。
 プールサイドに召集された沙羅は、薔子が知っているいつもの彼ではなかった。静かな表情の下に闘志がたぎっているのが感じられた。

 緊張した面持ちで、沙羅は上着を脱いだ。
普段は色白で、穏やかな雰囲気を纏っている少年であったが、肩や脚の筋肉は素人の比ではなく、見事な逆三角形を描いた体躯をしている。決して大柄とはいえないが、大勢の選手たちの中にいても見劣りしないだけの存在感を示していた。

「沙羅! いつもの通りにな!」
 この歓声の中、沙羅は康雄の声に気付いたらしい。スタンドに二人の姿を認めると笑顔を向けた。康雄がぐいと親指を立ててみせると、沙羅もにやりとして同じ仕草を返した。

 背泳の予選が始まった。
 沙羅は、とんとん、と飛び込み台の隣ではねる。
 まるで一本の槍のような体が宙に浮き、そして、ふい、と水に飛び込んだ。水しぶきはほんの僅かしかあがらない。まるで水底に吸い込まれるようだ。
 スタートの合図を前に、壁に手を掛けた選手たちがグッと体を縮める。
 合図と共に、全員が跳ねた。

 がんばって! がんばって!
 薔子は心の中で叫ぶ。

 場内にある電光掲示板が、次々と折り返し時点でのタイムと順位を映し出す。上位4人はほとんど同時だった。
 沙羅は、3位と表示された。決勝に進むにはかなり微妙なタイムだ。
 握った拳に力が入った。
 最終20メートルで沙羅は猛然とスピードを上げ、そして、トップでゴールした。

 電光掲示板に決勝レースの選手名が発表されていく。沙羅の名が映し出された途端、薔子が立ち上がった。
「康雄さん! 沙羅くんが!」
 喜ぶ薔子を後目に、康雄の表情は硬い。
「沙羅の様子がおかしい」姉さん、ごめん。駆け出した康雄の後を追って、薔子もスタンドを離れた。

「いやだ! 決勝にでます!」
「大丈夫、泳げます!!」
 選手が待機している部屋の片隅から、沙羅の声が聞こえてきた。沙羅は高熱を発し、気力だけで立っているような状態だった。
 コーチとの応酬はしばらく続いたが、決勝は棄権と相成った。
 部屋にひとり残された沙羅は、マットが敷かれた床の上に横たわっている。
 その頬を涙が伝った。
「兄さん、ごめん…」
 小さな呟きが聞こえ、二人はそのまま部屋を後にしたのだった。

 数週間後、再び顔を合わせた沙羅は、「次は絶対に優勝しますから、また来てくださいね」と明るい顔を薔子に向けたが、沙羅に“次”は訪れなかった。

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