The Blue Marble

#5

 加藤は誰もいない展望台から、ひとり暗い宇宙(そら)を見上げる。 一枚の写真をその手に持ち。

 幼い頃宝物だったあの青いビー玉を、一体何時の間に失くしてしまったのだろう。  あんなに大切にしていたのに――。

 デザリウムからの帰路、第一艦橋にはアナライザーが席を占めた。
 見かけは剽軽だが、万能ロボットである。文句を言いつつ、そつなくこなす。ついでに冗談を言い酒まで呑むのだから、まさに高性能ロボ。
 あれだけ森ユキに好意を抱いているくせに、今まで一度もその名を出さなかったというのだから、人間顔負けの優しいヤツだ。
 そう。
 森ユキが生きていたことの喜びも、サーシアがいなくなった哀しみも、誰も口にしない。
 けれども、一度だけ――。その帰路で、小さな宇宙嵐が艦を揺らした。僅かにアナライザーの報告が遅れたとき、島航海長が言ったという。
「澪。確認を頼む」と。

 カツンと足音がして、人の近づく気配がした。加藤の隣りで足を止める。
 青いラインが視界を動いたが、二人ともに黙して語らず、ただ宇宙を見上げていた。
 ふと、男が加藤の持つ写真に気付いた。
『The Blue Marble』か」

『The Blue Marble』
 正式名称 AS17-148-22727。
 それは1972年12月7日、アポロ17号の乗組員によって撮影された、光り輝く地球の映像である。
 人類史上、およそ世に最も広く頒布されたであろうこの一枚の写真は、まるでガラスのビー玉のようであったがため、そのままの名が付けられたという。
 The Blue Marble=青いビー玉、と。

「200年も昔の写真が、よくこうして残っているものだな」
 真田が僅かに口許を緩めた。
 技術の進歩により、現在の映像の方が遙かに精度の高いにも関わらず、この200年の間、一枚の古ぼけた写真は決して忘れ去られてしまうことはなかった。
「――ガガーリンの言葉と共に、初めて人類が宇宙から地球を見、そして、自分たちの立つ大地の美しさを初めて知った瞬間だから、じゃないですか」
 ゆっくりと、言葉を探すように加藤が答える。
 あぁ、そうなのかも知れんな、と真田も頷き、ゆっくりと腕を組んだ。
「しかし、よくそんなものを持っていたものだな」
 教科書や博物館には必ずある代物だが、“写真”として紙に印刷してあるものを携行しているのは珍しい。
 加藤は優しく地球の縁をなぞった。
「頂いたんです。イカルスの司書さんに、ね」

 母星の崩壊とともに、地球上の占領軍も力を失い、地球は再び平安を取り戻した。
 ヤマトの乗組員には、優先的に家族の消息が知らされた。皆が無事だったわけではなかったが、幸いにも、加藤の両親を初めとする家族も、また柚香も、その生存が確認されていた。
 そして、彼らにもまた、乗組員の消息が伝えられたはずであった。

 沈黙が二人を包む。
 しばらくの後、ぽつりと言葉が零れるように。
「帰る場所があるということは、幸せなことなんだな――」
 真田は全てを呑み込み、静かに笑みを浮かべる。
 ひとつの戦いを経て、加藤はその笑みの向こう側に横たわる、果てしなく深い闇があることを知った。
「早く休めよ」
 真田は踵を返す。

 明日になれば“青いビー玉”は、ヤマトの前にその姿を現すだろう。
 加藤は再び暗い宇宙を見上げる。

 悲劇は起こらないに越したことはないものの、あの幸福があったからこそ、それが悲劇になった。
 君と過ごした時間があったからこその、悲劇なのだ。
 ならば。
 もしも、時間を戻せるとしたならば。
 出逢うことの不幸せと、出逢わないことの幸せと。
 俺はどちらを選ぶだろう。

 この青い星は三つ目の女神伝説を、この先、末裔(すえ)までも伝えてゆくことだろう。
 この『The Blue Marble』とともに。
 俺はイカルスで一緒に暮らした少女のことを、決して忘れない。

 永遠に。

 イカルスは姿を変え、砕かれたその欠片ひとつひとつに想い出を抱え、永遠に宇宙を漂い続ける。
 青い透明な光の中で。

fin.
11 JUN 2009 ポトス拝
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