The Blue Marble
イカルスにおける柚香の業務は、天文台だけでなく、訓練学校の資料管理も兼ねていた。多くの課題をこなさねばならない訓練生にとって、膨大な資料を前に、解答ではなくそこに辿り着くまでの道筋を、さりげなく、だが的確に示唆してくれる柚香は頼りになる存在だった。すらりと背が高く、あまり飾り気のない姿に気さくな性格も相まって、柚香は訓練生たちとも交流を深めていた。
(プライベートでは、あの真田教官をファーストネームで呼び捨てにする彼女を、本気で想っていたマヌケなヤツはいなかったと思うけどね。むさっくるしい野郎ばかりの中で、柚香さんも、澪ちゃんも、みんなの憩いだったんだよね)
その澪の哀しみを、どうにもしてやれない歯痒さに、加藤は苛つく。
(柚香さん。どうして一緒に来てくれなかったんですか)
柚香がいたならば、澪の孤独が幾分でも和らいだであろうことを思わずにはいられなかった。長い黒髪が揺れる背中を空に思い浮かべ、加藤は呟くこともできなかったのだ。
柚ちゃんは、と言葉が零れる。
「柚ちゃんは、湊(みなと)くんの奥さんだもの」
はぁ? 加藤が素っ頓狂な声を出した。
「誰だよ、その“みなとくん”ってのは」
「湊くんは、建(たける)くんと翔(しょう)くんのお父さんだよ」
はあぁ? 顔中に疑問符をくっつけて、ますます訳がわからん、と盛大に眉を寄せた。
「たける? しょう? 誰だよ、それ」
「建くんも、翔くんも、柚ちゃんが産んだ子、だよ。…柚ちゃんは、建くんと、翔くんの、おかあ……」
途切れ途切れの声はそこで途絶え、澪は両手で顔を覆うと声もたてずに泣きだした。
一体何がどうなっているのか、全く訳がわからないままに、加藤は慌てた。
女性との付き合いは決して不得手ではなかった。その姿だけでなく、戦いという極限状態の中でも輝きを放つ加藤は、仲間から寄せられる信頼も篤いが、女性から見ても魅力的な存在であった。年頃の男性の数が減っているということを考慮しても、決して少なくない数の女性が傍にいた。その女性たちがまた魅力的であったのも、それは四郎の持つ資質の高さであろう。したがって、それなりに場数も踏んでいるし、女性の涙が武器になることも知らないではなかった。
だが、この娘の涙は苦手だ。榛(はしばみ)色の大きな瞳からほろりと涙が零れ落ちるとどうしていいかわからなくなって、慌ててしまう。
澪は小さな頃から泣き虫――というよりも表情が豊かで、泣くことも笑うことも、体一杯で表現する子だった。
いつからだろう、こんな風に静かに涙を流すようになったのは。
いつからだろう、この娘の涙におろおろするようになってしまったのは。
「み、澪ちゃん」
澪の隣に立って、加藤はただ名を呼ぶしかできなかった。震える肩に手を置くことも、それを引き寄せることも、できず。ただ戸惑う気持ちを抱えたまま、そこにいる。
だから。
掛けられたその声に、縋るような思いで振り返ってしまった加藤だった。
「こんな時間に何をしている? 体を休めることも、非常時には任務のウチだぞ」
そう咎め立てをした声の主は、幕之内勉。艦内服は黄色の地に黒のライン。襟は白いままだが、森ユキが乗艦していない現在、名実共に生活班のリーダーである。
大きな体から白いエプロンを外しながら近づいてくる。食事に来ない友へ差し入れに行っていたのかも知れない。その隣には、白地に青いラインの艦内服を着て、差し入れられた側であろう友人が立っている。
言わずと知れた工作班長、真田志郎だ。
「寝られる時に、ちゃんと寝ておけ」
「は、はい」
厳しい上官の声に、加藤は返事をする。
そんなことはわかっている。
でも、この娘の気持ちを支えてやることはいけないことなのか?
非常時だからこそ、必要なんじゃないのか。
もし、こんな状態で戦闘になったら。
だが、その言葉は喉につかえた。
そんなやり取りの中でも、澪は顔を上げない。そして、くしゃりとしわの寄った紙が、その膝からはらりと落ちた。幕之内が歩み寄り、それを拾う。驚いたように目を瞠り、次に小さく息を吐き出し、全てを解したかのように笑みを浮かべた。そして、それを真田に手渡すと澪の後ろに立ち、いつものように声を掛けた。
「澪」
今度は、澪が反応した。覆っていた両手を外し、涙に頬を濡らしたまま振り返る。
「――まく、さん」
澪はそのまま幕之内にしがみついた。
幕之内は澪の肩を引き寄せ、金に光る髪を優しく撫でた。
一方、その紙を受け取った真田は、何とも複雑な表情をした。滅多なことでは感情を表に出さない真田には、珍しいことである。しばらくそれを見つめ、加藤に渡した。
訝しげに受け取ったそれは、どうやら家族写真らしかった。
真ん中に、まだ若いがえらくでかい男女が一組。まだ歩き始めたばかりだろうと思われる子どもを、一人ずつ抱いている。服装から考えると男の子だろう。その隣りに、男性と似た面差しの年輩の女性と、軍服姿の若い男がひとり。反対側には、若い女性とその連れ合いらしい男。見るからに幸せそうな家族のポートレート。
そこに、見覚えのある顔がふたつあった。軍服を着ているのが、幕之内。
そして、夫であろう男性に寄り添い、幸せそうな笑顔を浮かべている女性は柚香だった。