The Blue Marble

 これは一体何だ。
 加藤が顔を上げるのと同時に、後ろから新たな声が掛けられた。
「場所を代えた方がいいんじゃないのかい?」
 振り返ると山崎機関長がそこにいた。イカルスに戻ったかのような錯覚を覚える。
 偶然か? いや。
 加藤は眉を顰(ひそ)めた。イカルス組とそうでない者の間に微妙な温度差が存在しており、それを荒立てないよう、教官らが細心の注意をはらっている事を加藤は知っている。何か事に当たるときにも、そういうメンツにならないように気を配っていた。だからこその、この時間、この顔ぶれは、偶然ではないだろうと思える。
 澪のことかもしれない。
 そうも、思った。

「その奥の部屋がいいでしょう。澪…」
 山崎の言葉を受けた幕之内に促され、澪は立ち上がった。
 調理室の奥にある、食材倉庫へ繋がる手前の小部屋。扉はない。端末が置いてあり、生活班員がデータ処理に使っている。もっとも、現在は専ら幕之内の休憩部屋として使用されているのだが。
 部外者である加藤があまり入ったことのないそこには、端末の他にソファとテーブルがあった。ソファはそんなに大きなものではないが、そこで仮寝できるくらいのものが二つ、テーブルを挟んで直角方向に置いてある。澪と加藤、真田がソファに腰を下ろした。
「さあ、飲みたまえ」
 山崎が笑顔と共に温かいココアを運んできた。
 この人も料理をする。本人は軍人暮らしが長くなれば自然とね、と言うが、もともとそういったことが好きなのだろう。イカルス時代も幕之内に手を貸したり、いつの間にか澪とおやつを作っていたり、なかなか器用な男なのだ。

 しゃくり上げていた澪が、温かいココアを口に運ぶ。
 こくん、と一口。そして、二口三口と飲み下した。
 小さなカップに入ったそれが無くなる頃、ようやく澪も落ち着きを取り戻したようだった。
「冷めるぞ」
 澪の様子をずっと窺っていた加藤だったが、幕之内に促され、慌てて自分のカップを空けると、山崎が空になったカップをトレーに集め、部屋を出ていった。皆の視線が、その後ろ姿を何となく追い、完全に姿が見えなくなったところで視線をもどした。澪と真田の視線が僅かに絡まり、だが、澪が視線を外し俯くと気まずい沈黙がそこに残った。

「それで、澪の一番聞きたいことは?」
 幕之内が、口火を切った。少し離れた場所で、壁に背をもたせかけたままだ。だが、澪は俯いたまま口を開こうとはしなかった。
「あの写真は、一体――」
「加藤」
 見かねた加藤が口を開いたが、真田がそれを制した。
「澪?」
 幕之内が再び尋ねる。

 たとえ拙くても、自分の想いは自分の言葉で語らなければならない。
 イカルスでの暮らしの中にあったルールのひとつだった。どんなに小さな子どもの言葉でも、それがどんなに拙いものであったとしても、自分から言葉を発しさえれば、誰もが耳を傾けた。言葉を発しようとすれば、何時まででも待った。それは、決してなおざりではなく。
 だから、他人の中で暮らしていても、澪は想いを伝えようとする事に積極的であり、また、真剣でもあった。

「柚ちゃんの一番大切な人は、誰?」
 俯いていた顔を上げ、睨むように幕之内を見つめた。
 幕之内は穏やかに微笑み、だが、さあ知らんな、と素っ気なく答える。
「義父さま?」
 今度は真田に答えを促したが、やはり真田も同じように微笑んだ。
「オレも知らんな」と。
 澪は唇を噛み、けれど、はっきりと言葉を紡いだ。
「誤魔化さないで。あたしは、ちゃんと知ってる」
 折り畳まれた写真が、ポケットの中で熱くなったような気がして、ごくり、と加藤は重い空気を呑み込んだ。
「柚ちゃんが一番大切にしているのは、湊くんなんでしょう? だって、建くんと翔くんのお父さんだもの。柚ちゃんは、二人のお母さんなんでしょう!? 一番大事なのに決まってるわ!」

 悲鳴のような澪の言葉に、加藤はたじろぐ。
 自分が見てきたあの風景は、まやかしだったというのか?
 まさか、柚香さんに夫と子ども?
 瞬きもせず、加藤も答えを待った。

 だが。
「確かに、湊は柚香の夫で、建と翔は二人の間の子だ。柚香は、今でも彼らを大切に思っているだろう。繰り返すが、柚香が誰を一番大切に思っているのか、オレは知らない」
 真田は表情ひとつ変えない。
 澪の瞳が見る間に潤んだ。
「義父さまのバカっ」
「澪ちゃんっ」
 加藤の叫びも虚しく、澪は立ち上がり駆け出した。
 平然とそれを見つめたまま引き留めもしない真田と幕之内に、加藤はキツイ視線を投げる。
 だが、部屋を飛び出そうとした澪は、入り口で山崎の胸にぶつかってしまった。山崎は、そのまま澪をぎゅっと抱き留めた。

 つん、とオイルの匂いが澪の鼻腔をくすぐる。
「あぁ、すっかり大きくなったね。もう、りっぱな娘さんだ」
 優しい声が、ささくれだった澪の心を撫でる。
「おじさま…」
 ぽろり、とイカルスでの呼び名が口から零れた。

 山崎がそこにいたのは、勿論偶然ではない。
 カップを片付けた後、中の話が外へ漏れないよう、また迂闊に入ってくる者がないよう、外で用心していたのだ。
 山崎が笑みを浮かべると、精悍で厳しい機関長の顔が優しいおじさんのそれへと変わっていく。機関部員たちが見たら驚くだろうが、澪にとっては見慣れた、当たり前にそこにあった笑顔である。
 澪にとって、オイルの匂いは、大好きな人たちの笑顔と共にあるものだった。

背景:「Cello Cafe」様、「Crystal Moon」
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