風のとまる処
幕之内は、ふと目を覚ました。
どれくらい眠ったのだろうか。壁の時計の短針が、ひと目盛りほど進んでいた。
ベッドサイドには柚香がいる。
白いカーテンを揺らした初夏の風が、僅かの後に長い黒髪に届くと、幾ばかりかの髪が頬を撫でた。
さっきまでの勢いはどこへやら。幕之内のその無事な姿を見、安心したのだろう。椅子に腰掛けた柚香は、壁にもたれ掛かってすやすやと寝息をたてていた。
どこででもあっと言う間に眠りに落ちてしまえるその体質は軍人の目から見ても羨ましいぜ、などと苦笑いしつつも、その安らかな寝顔を愛しいとも思う。
だが、この想いは恋ではなかったのだろう。
結局ふたりの“幼なじみの嫁さんで妹みたいなもん”という関係は変わることはなかった。
いや、変わったか、と幕之内は口端を緩めた。“幼なじみの嫁さん”は“戦友の嫁さん”になったのだから。
今までの付き合いの中で、幾度かそうしようと思えばそうなってしまえる機会はあったが、結果として、ふたりともがそれを選ばなかった。
どうも、ダメなんだよな。
幕之内は白い天井を見上げた。
湊の腕の中で微笑む姿も、真田に寄り添う姿も、どちらも幸せそうな柚香を思い浮かべることができるのだが。
俺の腕の中にいるアイツは、何故かいつも泣いている。哀しそうに、ぽろぽろと涙を流すばかりで――。
俺は、笑っている顔が見たかったんだ。
母をなくしたあの時から、俺はずっと湊に甘えてきた。いつでも、傍にいてくれたあの力強い幼なじみに。だから、湊を失ったショックはたぶん柚香と同じ、いや、それ以上だったのかもしれない。
俺はその痛みに気付かない振りをしたまま、アイツを支えることでその傷を癒してきた。だから、俺たちの間には、必ず湊がいた。俺にはそれを越えることができなかった。
あの頃。
それを自覚していたら、俺たちはもっと違った関係になっていたのだろうか?
いや。
幕之内は
わかっていても同じだったろう。俺たちは大切な人を失い、それでも生きようと足掻き続けた。俺たちは同じ戦いを戦ってきた仲間なんだ。
風にもてあそばれた髪が、再び揺れた。
絹糸のようなその長い黒髪に手をやるのは、もう、自分の役目ではない。――そう思う幕之内の耳に、遠くから足音が聞こえた。
バタバタと小走りに駆けてくる、あの足音の主は――。
幕之内の頬が自然と緩んだ。
くすり、と笑った雰囲気に目を配れば、いつの間に目を覚ましたのか、柚香が可笑しそうに笑みを浮かべていた。
「幕さん。ものっ凄く、嬉しそうよ?」
ゴホッと空咳をした幕之内の様子は、如何にも照れ隠しといった風情で。
「うるせぇな。自分の女房のことで、お前にとやかく言われる筋合いはないっ」
と不機嫌そうに。はいはい、何も申し上げませんとも、と柚香は可笑しそうに、顔の前でひらひらと手を振って見せた。
がらり、と病室の扉が開く。
「勉さん!」
周りを気遣って精一杯静かに走ったつもりだったが、それでも、はぁはぁと肩で息をしながら飛び込んできた。
「瑞穂」
嬉しそうに幕之内が破顔した。
20歳も年下の瑞穂と結婚して、周囲を唖然とさせたのは1年ほど前のことだ。
瑞穂はたたとベッドサイドへと駆け寄り、心配そうに幕之内の顔を覗き込んだ。
「勉さん、勉さん――」
心配のあまり言葉が出てこない瑞穂の手を掴もうと、幕之内は手を動かす。
大丈夫だ、瑞穂。大したことはない――掛けようとした言葉は、だが、直前で遮られた。
「大丈夫よ、瑞穂ちゃん。肋骨が折れてるだけだから。内蔵には傷が付いていないっていうから、何の心配もないわ」
「柚香さん――」
瑞穂は今初めて柚香の存在に気がついた。
動かし掛けた手を引っ込め、幕之内は渋面を作る。
「もうお前は帰れ、柚香」
苦々しげにそう言うと。
「あぁら、ご挨拶だこと」
大袈裟に肩を竦めて見せた。
「そうよ、勉さん。何て事を言うのっ。ごめんなさい、柚香さん」
瑞穂は慌てて謝ったが、そんなヤツは放っておいていいぞ、とむくれてみせる幕之内に、柚香は苦笑を禁じ得ない。
「何だ、元気そうじゃないか」
ひょいと顔を見せたのは、防衛軍科学技術庁長官である真田志郎だ。
「あ。真田長官、先程は、ありがとうございました」
瑞穂が頭を下げた。
科学局で研修をしていた瑞穂に、幕之内の事故を知らせ、ここまで送ってきたのは真田である。
瑞穂には、気にすることはないさ、と言葉をかけ、「大丈夫そうだな」と戦友の顔を覗き込んだ。
幕之内の怪我が酷いモノではないのを喜んでいる、とわかる者は、そう多くないだろう。もともと表情が豊かな方ではなかったが、ここ数年の激務が更にそれを加速させた。表情を読ませないことも仕事のウチだ。
「じゃあ、俺は帰るからな」
腰を下ろしもしない真田を、多くの人間は冷たいと言うだろう。だが、幾度もの戦いをともにし、妻の最大の理解者でもあるこの男の様子を、自分の目で確かめたかったから無理をしてでも、激務を抜けてきた。無事な様子さえわかれば、時間を無駄にするつもりはない。もう何日も家にも帰っていないのだから。
幕之内もそんなことは百も承知だが、嬉しそうな顔を見せるでもなく、あぁと返事を返すばかりだ。
「あ、待って。私も一緒に行くわ」
そんな二人の様子を見ていた柚香だったが、夫の言葉に慌てて荷物をまとめた。
「じゃ、幕さん。またね」
手をひらひらとさせ、後ろも見ずに夫の後を追った。
「あぁ、またな」
幕之内のぶっきらぼうな声が、その背を追いかけた。
初夏の風が、ふたりの間を吹き通っていった。
04 JUNE 2009 ポトス拝