風のとまる処
「はい。はい、わかりました。明日10時ですね」
幕之内がスイッチを切ると、そこにあった映像もともに消えた。軍からの出頭命令が出たのだ。
ふと、顔を上げるとそこに彩季子が立っていた。
「おばちゃん、休暇は終わりだ。明日隊へ戻るよ」
そう告げると彩季子は小さく嘆息をし、「――仕方ないね」と言った。
だが。
「ダメよっ! 絶対ダメッ! 怪我だって、まだ治りきっていないじゃない!!」
振り返ると、買い物から帰ってきた柚香が顔を歪ませたまま、そこに立っていた。
2195年、初夏。
柚香が地下都市での暮らしにも、彩季子とのふたり暮らしにも慣れた頃、負傷した幕之内が帰ってきた。
折れた肋骨が内蔵を傷つけ、退院後も自宅療養が必要となり、傷が癒えるまで3人で暮らすことにしたのは一月ほど前のことになる。
まだ、折れた骨は完治してはいなかったが、幕之内は床につくこともなくなり、トレーニングも始めていた。
(今日は何を作ろうかしら)
柚香はウキウキと夕食の食材を選んでいる。
「誰が作るんだって? 作るのは俺だ。お前、とうとう日本語の使い方を忘れたか?」
そんな幕之内の冷たい言葉も、今は楽しい。
(久しぶりにカレーが食べたいなぁ)
などと思いつつ店を巡る。
(タマネギとジャガイモと人参は――いらないんだけどな。でも買っていかないと幕さんが怒るし。仕方ないわね。お肉は、えーと。あ、ついてる。合成でも牛肉が出てるもん。これに決めた、っと)
ふんふんと鼻歌を歌いながら、柚香は必要な食材をかごに入れレジに並んだ。
謎の敵による攻撃は今も続いてはいるが、この時期、地下に逃れた人々にはそれがどこか別の世界のことのような気がしていた。中には、そうでない者、危機感を募らせる者もいないわけではなかったが、とりあえず日々の生活は成り立っていたのだ。
食べる物はあり、着る物もある。多少の不自由はあったが、娯楽施設もある。
ただ、青い空がない。星が見えない。
それだけの違いだ、と。
昨日の生活と今日の生活に大きな違いはなく、きっと明日も同じ生活が続いていくに違いない。
不安を押し隠し、安易な希望に身を任せ、多くの人々は漠然とそう信じていたのだった。いや、信じていたかったのだ。
だが、軍に身を置きその惨状を目の当たりにしていれば、それがまやかしであることは誤魔化しようがなかった。
華々しく出航していった艦は、数日後、ぼろぼろになって帰還する。
こちらの武器は敵艦を撃破することは叶わず、だが、敵の一撃でこちらは貫かれてしまう。
もう一体どれほどの仲間が喪われたことか。
だが、諦めるわけにはいかなかった。
いつか仇を討つのだ、と。
その無念を晴らすのだ、と。
いつか必ず勝利を手にするのだ、と。
残された者は、そう胸に刻む。
だが、本当にそれが可能なのか?
誰もがその問いを打ち消し続けつつも。
それでも、生よりも死に近い場所。
それが現在の防衛軍だった。
そんな日々に、幕之内は疲れていたのかも知れない。
夫・
逝ってしまった幼なじみを中心にして。
まるで何事もないかのように。
明日も明後日も。こうして日々が過ぎて行くかのように、ゆったりと暮らしていた。
だが、その穏やかな暮らしは一本の電話によって破られたのだった。
「嫌よっ! 絶対に嫌っ!」
柚香は零れそうなほどに目を見開き、今にも泣き出しそうな表情で、怒っていた。
「柚香――」
足許には、買い物かごから零れ落ちたオレンジがひとつ、ころりと転がっている。
唇を噛み締めた柚香が幕之内に駆け寄った。
「ねぇ、軍なんて今日限り辞めちゃえばいいのよ。そうよ。そうしましょう。そうすれば、命令だって来やしないわ」
熱に浮かされたような瞳で見つめ、両腕を掴んで幕之内を揺すった。
幕之内はされるがままに、だが、眉根を寄せ苦しそうに柚香を見つめていた。
「ねぇ幕さん、そうしましょう? 今から辞表を書けばいいのよ。ね?」
縋るような目をして訴える柚香を振り切るかのように、幕之内はきつく目を瞑り。
そして数秒。
意を決し、目を開いた。
その視線に耐えかねた柚香が目を逸らせた。
「嫌よっ。絶対、いやっ。行かないで!!」
柚香の悲痛な叫び声は、だが、幕之内の決心を揺るがせることはできない。