風のとまる処

 そして。
「柚香――」
 幕之内の声も、柚香には届かない。

「幕之内先輩、初めまして! 新入生の橘柚香です。以後、よろしく!」
 セーラー服の衿を春の風に靡かせながら、明るい笑顔で敬礼をしてみせた少女。
 好奇心の赴くままに移りゆく視線とその光る瞳に惹かれた。
 幼なじみの恋人だと知ったのは、夏。その腕の中にいる彼女があまりに幸せそうで。彼女をいだく幼なじみの表情があまりに穏やかで。
 初めて見るその笑顔に気が抜けたようなそんな気がして、ああ良かったな、と思ってしまった。

 あれから7年。

 愛する夫と可愛い盛りの子らを失い、ようやくの思いで死の淵から這い上がってきた柚香に、だが、あの頃の面影は未だなく。今を生きるのに精一杯の彼女は。
 そんなに愛していたか。そんなにも大切だったか。
 湊――! どうして柚香をひとり置いていった?
 お前はどうしてひとりで逝ってしまった?
 叫ぶこともできず、幕之内は奥歯をぎりと噛み締めることしかできない。

 だが。
 だが、柚香。

 幕之内はカッと目を見開いた。
 死んだのは湊だけではない! 柚香!!
 戦い挑み、無念さに歯噛みしながら、為す術もなく逝った人間を俺は知っている。
 その命を犠牲にして仲間を守り、明日を託して笑って逝ったヤツを、俺は知っているんだ。
 死んだことさえ気付かずに、一瞬で逝ったヤツらを、俺は――!
 だから。
 だから、済まない、柚香。
 俺はお前のためだけに生きてやれない!!

「柚香」
 やっと絞り出した幕之内の言葉は、行き場を失い彷徨う。
「嫌っ。聞きたくないっ」
 両手で耳を塞ぎ、頭を振った。
 長い、絹糸のように艶やかな黒髪が揺れる。
 ねぇ、柚香が顔を上げた。
「ねえ、どうして幕さんが行かなきゃいけないの? 主計官じゃない!? 料理をするだけなら、何も幕さんじゃなくったっていいじゃない!? 幕さんじゃなきゃできない仕事じゃないわ!!」
「柚香っ」
 腹の底から響くような声で一喝され身を竦ませた柚香は、それでもキッと幕之内を睨み返した。
「幕さんが生きているなら、他の人がどうなろうと、私は――」
「柚香あっ!!」
 皆まで言葉にする前に、幕之内の怒声がそれを遮った。高く振り上げられた右手に、柚香は瞼を閉じ体を固くした。

 だが。
 一瞬の静寂の後、振り上げられた右手がそっと柚香の頬に触れた。
 びくりとしてそっと目を開け、目の前の男を見つめた。触れられた手の温かさに気付くまで、数秒かかった。
 泣いているような笑みを浮かべ。
「確かに、俺にしかできないことじゃない。俺じゃなくたって、できるヤツはごまんといる。俺がいなくても、どうにでもなる。その程度のただの歯車で、ただの一兵卒にしか過ぎはしない。だが、な。それでも、俺は行かなきゃいけないんだ。俺はもう受け取ってしまったのだから」
 いつもの優しい声が頑なな気持ちを揺らした。
 ほろり、と頬を一筋の涙が伝う。
「一緒にいてやれなくて、済まない――」
 震える柚香の頬から手が離れた。
 目を瞠ったまま縋るような視線を向けるが、幕之内はそれを受け止めはしなかった。静かに踵を返すと立ち尽くす柚香をその場に残し、自分の部屋と向かった。

 30分後、荷物をまとめた幕之内がザックを肩に掛けて、部屋から出てきた。
 くずおれるように座り込み、虚ろな目で床を見つめる柚香の脇を通り玄関へ出た。編み上げのブーツに足を突っ込んだとき、後ろから彩季子が声を掛けた。
「明日じゃなかったのかい?」
「うん。早く着く分にはいいんだよ、こういうのは、さ」
 女性としては大きい方なのだろうが、中学生のときにその背を追い越して以来、ずっと見下ろしてきた彩季子が(かまち)の上に立ち、幕之内を見下ろしていた。

「おばちゃん、柚香を頼むな」
 呟くようにそう言うと彩季子はゆったりと笑った。
「ああ、任せておきよ。大丈夫さ。あの娘は本来強いくて聡い子だ。今は初めての恋の終わりに、どう決着をつけたらいいのか戸惑っているだけなんだよ」
 そうして優しい目をして、ふわりと両腕を広げ幕之内を包み込んだ。

 一瞬、息を止めた。
 幼い頃、ケンカをしては泣きついた優しい懐の匂いが、数多の想い出とともに甦る。

 彩季子の手が赤ん坊をあやすように、幕之内の背を優しく叩いた。
「私の息子は、随分とイイ男に育ったようだよ。勉。私はお前を自慢に思っているよ」
 低く温かい声が胸を伝わり、響いた。
 彩季子はそっと体を離し。
「頑張っておいで。悔いの無いように、ね」
「――おばちゃん」
 泣き出してしまいたい気持ちを必至で抑え、幕之内は彩季子を見つめた。
 彩季子は優しい笑みを浮かべ、言った。常の母親が戦いに赴く息子に必ずかける言葉を。
「気をおつけ。そして、きっと生きて帰っておいで。待っているからね」
 幕之内は彩季子の想いをごくりと飲み込み、ぴしりと敬礼をした。
「幕之内勉、行って参ります! お母さんも、健康には留意されお元気でお過ごしください!」
 そうして、幕之内は二度と振り返ることなく、家を後にした。

 幕之内を見送った彩季子は、再び、小さく息を吐いた。
 部屋へ戻ると、まだ床に座り込んだままでいる柚香に手を貸しいざなった。
 ベッドに腰掛けた柚香の目は虚ろで、まるで、以前の状態――夫と子どもらを一遍に亡くしたあの時の状態に戻ってしまったかのようだったが。それでも、名を呼ぶとゆっくりと顔を上げた。
「柚香。お前は、湊が生きていれば勉が死んでしまってもいいのかい?」
 彩季子の言葉に、ひっと息を呑んだ。
 震える柚香は、縋るような目をして首を振った。
「柚香。勉は湊の代わりじゃないんだよ」
 再び息を呑み、凍り付いたかのように蒼白になった柚香を残し、彩季子は部屋を出た。
 あぁうぅっ、と声を殺して泣く様子が伝わってきた。
 その声は一晩中止むことはなく。彩季子もまたまんじりともせずに朝を迎えた。

 自然光の届かない地下都市だが、それでも朝は巡ってくる。
 真っ赤に泣きはらした目をして、柚香は彩季子の前に立った。
「幕さんのいる場所を、教えて――」と。

背景:「フリー素材*ヒバナ *  *」様、「季節の窓」様 、「Atelier Black/White」様
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