星下之宴

#2

 月はなかった。
 降るように輝く満天の星が明るい。
 寮から訓練学校へと繋がる庭は中央を貫く石畳を中心に、幾何学的に刈り込まれた低木が左右対称に配置されている。その中央にある池近くの芝生に腰を下ろし、神在茉莉花(じんざいまつりか)はひとり夜空を仰いでいた。
 夜風が通り過ぎて行く。
 背後に他人(ひと)の気配を感じた。

「男にフられでもしたか?」
 振り仰ぐ星の瞬き以上に魅惑的なその響きを心地良く感じつつ、ゆっくりと振り返ると声の主を見上げた。Tシャツにジャージという軽装姿の友人が、茉莉花を見下ろすようにして立っている。長身であった。肩幅は広く、鍛えられた身体をしている。ポケットに手を突っ込んだだけのそのラフな姿さえもが、様になる男だ。
「お前と一緒にするなよ、古代」
 薄い笑みをその頬に浮かべつつ、女性にしては低い声で茉莉花が応答すると、男はふふんと笑った。
 男の名を古代守という。茉莉花と同じ、宇宙戦士訓練学校の同期生である。
「何時帰ってきたんだ? お前、火星で実習中だろうが」
「今朝方、帰還した」
「ドジったのか?」
 にやりとした茉莉花が僅かに目を細めると、古代はふんと鼻で笑った。
「この俺が、か?」
「――お前はツメが甘い」
 茉莉花の答えに、古代は沈黙した。

 茉莉花は航法科に所属していたが、「スペース・イーグル」の異名を持つこの友人は、名実共に戦闘科の首席である。魅惑的な声以上に整った容姿と華やかな雰囲気は、この男を常に人の輪の中心に置いた。古代の人と為りに魅せられた者は多く、宇宙戦士訓練学校という場に於いては、戦闘指揮という能力の許、それは遺憾なく発揮された。
 古代は情に篤い。
 それは、大いなる長所でもあり、また、最大の欠点でもあった。

「随分、いい酒じゃないか」
 古代は少し顎をしゃくると、茉莉花の手許にある一升瓶を見やった。
「あたしは来週から実習だからな」
 茉莉花は手許に置いたコップを口に運び、ごくりと呑み干した。
 旨い、と呟く。
 どさりと茉莉花の前に腰を下ろした古代が、今まで何処に持っていたのやら、当然のように湯飲みを差し出す。茉莉花はあきれた表情を作って見せた。
「お前。ただ酒を呑みに来るのに、手ぶらか?」
 そう言いつつも、片手で一升瓶を掴むと、静かに古代の湯飲みに酒を注いだ。

 古代は口許に運んだ湯飲みを、一瞬だけ止める。
 ふわり、と漂う日本酒独特の香気を楽しむ。ゆるやかな、だが辛口のこの酒は冬桜という。この辺りの地酒だった。純米酒は学生でも楽しめるほどの手頃な値段だが、吟醸になった途端、その味も値段も跳ね上がる。大吟醸ともなれば生産自体が少量で、値段以上に入手困難な酒であった。
 古代はゆっくりと香気豊かなその酒を口に含んだ。
「旨いな」
「ああ」
 揃って、酩酊したような表情になった。

 この二人、共に酒豪である。
 水のように酒を呑み、だが、決して酒に呑まれることがない。肴を必要とするわけではなく、ろくに顔を赤らめることもなく、だた『旨い』と言っては呑んだ。
「『旨い』という以上に、何の表現がいるんだ? 俺は評論家じゃないぜ」というのが持論だ。
 だが、これが大勢での宴会ともなれば話は別だ。人好きのするこの男の傍には常に人が集まり、その輪の中心で明るく陽気に古代は呑む。共に呑み、語り、騒ぎ。いつしか酒以上に“古代”という男に心酔してしまう人間は多い。
 そして、その男が二人きりで呑む時はまた別な顔を見せる。光る瞳に見つめられ、魅惑的なその声に耳を傾けているうちに、ふと気付けば恋に落ちていた。そんな女が後を絶たない。特定の女と深い関わりを持とうとしないこの男が、決して非難を浴びないという事実は、悪友どもからすれば不思議以外の何ものでもなかったが、それもまた、この男の魅力なのだろう。
 今度は古代が一升瓶を掴んで、茉莉花のコップに注いだ。

「幕之内は遅いな」
 唐突に古代がそう言ったのは、小一時間もたったころだろうか。
「お。肴がくるのか」
 茉莉花が笑んだ。幕之内の作る料理は一級品だからだ。つまみはいらないと言っても、旨いものが嫌いなわけではない。
 この幕之内勉。二人の同期生であり、砲音鳴り響く中、微塵も動揺せずに飯を作り続けられる男である。
 料理人とはいえ体技に秀でており、校内武術大会に於いては、幕之内が入学して以来他の者は優勝杯を手にすることができないという実績を持つ。銃を使わせても、白兵戦をやらせても、大変に戦闘能力の高い男だった。だが、訓練中の事故で目を痛めた。日常生活には支障を来すことはない程度の損傷ではあったが、幕之内はあっさりと戦闘科から主計科へと転科し、現在に至っている。茉莉花とは出身高校が同じため、気心の知れた仲だった。
 二人ともに、幕之内の作る“豆腐”が好物であった。

inserted by FC2 system