約   束

#3

 いつのまにか時は過ぎ、口をつけないままにカフェオレは冷たくなっていた。

「早春に咲くこの小さな植物たちのことを『スプリング・エフェメラル――春の儚い命』と呼ぶんだよ」
 そう教えてくれたのは、亡くなった夫だった。
「知っていたかい? この《星の瞳》とも呼ばれる瑠璃色の小さな花――オオイヌノフグリはね、1日でその生を終えるんだ。毎日、ボクらの足下で咲き続けているように見えるけど、このコに逢えるのは今日限りなんだよ。同じ時は二度と訪れないからね」
 低く柔らかな声で穏やかに話すあの人は、もうここにはいない。あの時は決して還ることはなく、その声を聞くこともできない。

 そして、あの子も――。
 季節は巡り、桜は毎年花を咲かせるけれど、一緒に見るはずだった貴女はいない。結局、この大地を踏むことなく逝ってしまった娘。

「約束は、きらいよ」
 小さな呟きを残して柚香は立ち上がった。冷たくなったマグを手に、もう一度温めようとキッチンへ向かう。
 その時、チリンと来客を告げる鈴の音が鳴った。

 柚香は首を傾げる。
 彼女の飾らない性格のためか、この家は来客が多い。突然、友人が遊びに来たり、近所の人がお裾分けにと何かを持ってきたり、散歩がてらお茶を飲んでいったり、下校途中の子どもたちが寄り道をしたり。
 繰り返された戦いの中、極限に近い環境を人はひとりで生きていけない。平和が訪れた時、それがどう変化していくのかわからなかったが、現在はまだ、戦時中の気分と付き合いが生活の中に刻まれていた。
 柚香が首を捻ったのは、玄関のベルが鳴ったからだ。
 親しい人たちは玄関を通らず、みな庭から入ってくる。

「はい?」
 インターホンの小さな画面の中、懐かしい顔がそこにはあった。

「まぁ、加藤くんじゃない!」
 慌ててドアを開けた。
 加藤四郎――名だたるヤマトの戦闘機隊隊長。現在は月基地に勤務している。だが、柚香にはイカルスでの生活を共にした懐かしい仲間であった。

「こんにちは、お久しぶりです。ご無沙汰しちゃってすみません」
 ぺこり、と加藤は頭を下げた。
「そんなことはいいんだけど、でも、びっくりしたわ。すっかり立派になっちゃったのね。こっちに来てるなんて知らなかったわ。みんなも元気?」
 寒かったでしょう? さあ、上がってちょうだい、美味しい珈琲があるのよ、と招き入れようとするも。
「すみません。今日はこれから月へ帰らなきゃいけなくて。ゆっくりしていられないんです」
 申し訳なさそうに再び頭を下げた。
「あ、あら、そうなの? 残念ね。でも、それじゃ、幕さんか志郎に何か用事でもあった? 申し訳ないけど、ふたりとも今はいないのよ」
「いえ、おふたりに用事があるわけではなくて。柚香さんに――これ」
 残念そうな柚香に、加藤はおずおずと手にした包みを差し出した。

「なあに? 私に?」
 少し驚いた様子で首を傾げる様に、加藤は息を呑んだ。
(澪ちゃん――!)
 小首を傾げる柚香の様子に、逝ってしまった少女の面影が重なった。

「加藤くん?」
 名を呼ばれ、加藤はハッとした。
「う、旨いのが手に入ったので――」
 慌てて用意してきたのものを手渡した。
「あ、あの、柚香さん。今度はオレも一緒に食いに来てもいいですか?」
 泣きそうな気持ちを悟られまいと、加藤は明るい声を出した。柚香はにっこりと応えた。
「もちろんよ。いつもで来てちょうだい。待ってるわ」
 柔らかな柚香の笑顔に包まれて、加藤は救われたような思いで暇を告げた。

(一体何かしら)
 加藤を見送った後、柚香は首を傾げながら、さして重くはないその包みを開いた。
 出てきたのは、串団子だった。みたらしとつぶあんのそれは、5本ずつ紙に包んであった。

 覚えていてくれたの――
 あの時、鬼教官を冷やかすこともできなかった訓練生達は、宴会の終わった後、柚香にこっそりと告げたのだった。
 地球で花見をするときは、きっと旨い団子を持っていくから、と。

 柚香の唇が小さく震えた。
 加藤だとて、辛くないわけはなかったはずだ。澪を妹のように可愛がり面倒をみていたことを知っている。或いは、妹、というだけではなかったのかもしれない――とも思うのだ。一緒に帰れなかったことをどれほど悲しんでいたか、知らない柚香ではなかった。

「加藤くん。ありがとう」
 言葉と一緒に潤んだ瞳から滴が零れそうになったとき、ちりんと再びの来客を告げる音がして、柚香は慌てて目頭を押さえた。
(今度は誰?)
 再びインターホンを覗くと、宅配の業者が帽子をとって待っていた。

 みんな――
 キッチンのテーブルの上は、届いた品々でいっぱいになってしまった。
 科学局で真田の補佐を務める藤咲からは、真っ赤に熟れた苺が。当時訓練生だった加藤の同期生たちからは、それぞれにお団子がたんまりと届いた。
「山崎さんたら――」
 思わず苦笑したのは《飲み過ぎ防止のため7合瓶で》と書かれたカードと一緒に「枯山水」が送られてきたからだ。
 そして、今度こそ涙が零れようかという時に、がらりとキッチンの扉が開いた。

「志郎――!」
 びっくりしてしまった。
 恋人はデザリウム戦の後、重核子爆弾の処理やら占領施設の後始末やらと、骨身を削り、休む暇もなく働き続けている。
 時折ふらりとやってきては泥のように眠り、朝になると出かけて行く。そんな日々を送っていたから、何時やってこようともさして驚かなくなっていた柚香だったが。
 まさかの今日このタイミングに驚き、呆然と立ち尽くした。

背景:「Crystal Moon」
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