約 束
う、わぁ、と誰もが息をのんだ。
見渡す限り、一面の桜。
空を仰げば、高い梢からほんのりと薄紅く染まった花びらが落ちてくる。雪が降るように、はらはら、はらはらと舞い落ちる。
そこかしこから息が洩れ出でた。
花びらが降り積もる音が聞こえるような時が流れた。
「よぉし。弁当にするぞ」
幕之内の声に弾かれ、皆我に返った様子で支度が始まった。それぞれが適当な場所に腰を下ろし、弁当を広げる。山南による乾杯の声が、宴の始まりを告げた。
「ねえ、義父さま。この卵焼きは私が作ったの」
ちょこんと隣りに座った義娘が差し出す卵焼きを、真田が口に運ぶ。
「うん、美味い」
「本当? 本当に美味しい?」
「ああ、本当だ。澪は料理が上手いな」
満面の笑みをたたえた澪は、実に嬉しそうだ。あ、加藤くんも食べる? とついでのように勧められた加藤でさえもが笑顔で礼を言った。
ソメイヨシノの薄いさくら色の花びらは、舞うように降り積もる。
濃いピンク色の山桜や紅色の八重桜も枝いっぱいに花をつけ、少し離れた場所には、垂れ桜が豊かな枝を垂らしていた。
はらはら、はらはらと桜が舞う。
賑やかな食事が済んでも、誰も終焉を告げなかった。若者は何やらゲームに興じ、教官連中は楽しそうにちびりちびりと杯を傾けている。
みんな、穏やかな顔つきになったわ。
大きな桜の下にひとり離れて腰を下ろした柚香は、辺りを見渡してそっと微笑んだ。
一年前、ここへ赴任したのは、白色彗星との戦いが終結し間もない頃のことだった。多くの仲間を失い、癒えない傷を抱え、それでも立ち止まることなく生き抜こうとして、みんな必死でもがいてた。救えなかった命への悔恨と生き残った責務の狭間で、苦しんでた。わかっていても、私にはどうしてあげることもできない。私は、ただここにいることしかできなかった。
そんなイカルスを救ったのは、小さな赤ん坊だった。無垢な魂と無邪気な笑顔が、少しずつ彼らの傷を癒していった。
――澪、貴女がみんなを救ったんだわ。
澪はいつものように、加藤らと楽しげに談笑している。いや、澪を囲むように輪ができていた。
輪の中心で笑うその姿に、柚香もまた笑みを浮かべた。
大きな病にも罹らずよく無事に成長したくれた、とようやく胸をなで下ろすことができる。ここまで成長すればそろそろ地球へ降りても問題ないだろうと、先日医師から申し渡されていた。肩の荷が半分下りたようだった。
楽しげにゲームに興じていた彼らは、どうやら腕相撲を始めるらしい。臨時の場が作られ、教官らも巻き込んでのトーナメントが始まる。その中にあって、美しく成長した澪はまるで栄光を称える女神のようだった。
柚香は、会ったことのない地球を救ってくれた女神に思いを馳せた。
貴女から預かった宝物はこんなにも美しく育ちました、と。
ふと見れば、真田がこちらにやってくるところだった。
「俺はルール違反だとかで、追い出されたよ」
苦笑しながら、柚香の隣に腰を下ろした。
「仕方ないわね」と柚香も笑った。
真田は義肢だ。いくら鍛えてあるから出せる力とはいえ、出力次第では常人では叶わないほどのパワーがある。一人勝ちは自明の理となれば、遠慮願いたいというのももっともな話である。
「ひとつ、いかが?」
ありがとう、と杯を受け取り、干した。
試合が始まり歓声が響くと、不意に、真田の胸に在りし日の光景が広がった。遠い日を追い、目を細める。
「昔、訓練学校の裏庭に随分大きな桜があったんだ」
真田の昔語りは珍しい。柚香は小首を傾げ、聞き入った。
「何につけ酒が好きな連中が多くてな、夜桜見物と称しては毎晩のように集まっていたよ。酔っちゃ池に飛び込んだり、大声で歌ったり、くだらない口論を本気でやりあったり、まあ、大概な連中だったがな」
思い出に苦笑する真田は、照れ隠しのように杯を空けた。
瞼を閉じれば、陽気な仲間達と闇に浮かぶ白い桜の姿が鮮やかに浮かんだ。
だが。
同時に、苦い思いが胸に去来する。
皆、いなくなってしまった。敵わぬ戦いの果てに、散ってしまった。
夢を語ったあいつも。
殴り合ったあいつも。
競い合ったあいつも。
愛を告げた少女も。
この桜さえもが、今はもう存在しない。
想い出への思慕と同時に自責の念に襲われ、束の間表情を無くし、真田は舞い落ちる桜を見つめた。
はらり、と花びらが目の前で舞った。
ハッと我に返る。どれほどの時がたったのか、試合は未だ続いていた。ゆっくりと、首を回す。隣には、小首を傾げ微笑む女(ひと)が、変わらずにそこにいた。
「はい。もうひとつどうぞ」
柔らかい声に誘われるように、真田は手を伸ばす。注がれた酒をぐいと飲み干すと、辛口のすっきりとした香りが鼻に抜けた。
旨いな、と呟いた。
変わらず柔らかな笑みを浮かべる女(ひと)の上にも、桜は降るように舞い落ちる。真田は、寝てもいいかと、と杯を置いた。
「まぁ」
柚香が小さな声を上げたのは、その膝の上に真田が頭を乗せたからだ。
心地よい温もりがそこにあった。
いつも変わらぬその温かさに満たされ、真田は瞼を閉じる。
「柚香」
「なあに?」
「春になったら、澪を連れて桜を見に行こう」
一瞬息を呑んだ気配がした後、そうね、と柔らかい声が降ってきた。
まるで白い花びらが降るような声だと、真田は思った。
「お前ら、いい加減にしろよ」
強面の真田にそう突っ込んだのは、勿論、同期の幕之内だけだったが、真田は素知らぬ顔で睡眠時間を確保したのだった。
桜の降る中、幸せな時間が流れた。