約 束
窓辺に佇み、柚香はぼんやりと景色を眺めていた。
まるで桜の花びらが舞っているように、はらはらと雪が落ちてくる。
蕾がほころび始めたというのに、枝にはうっすらと雪が降り積もっていた。春の訪れを今少しでも遅らせようと、まるで冬将軍が最後のあがきをしているかのように。
花冷え、というには寒すぎた。
だが、幾重にも重ねられた強化ガラスは、室温と外気の温度差に曇りもせず、外の景色をくっきりと映し出している。
ヤマトがデザリウムから戻り、暗黒星団帝国による占領から解放された後、柚香は家を移った。職場からもさほど遠くはない、郊外の小さな一軒家へ。
小さなキッチンの付いたリビングと寝室と客間。他に部屋がふたつ。それは、恋人と友人がそれぞれに使っている。
最新素材を骨組みに用いつつも、柔らかなぬくもりのある木壁。小さな庭には小さな花壇があり、低木がいくつか植えられている。ドウダンツツジの垣根に囲まれた家。
セキュリティの高さで選んでいたマンションを後にすることを恋人も友人も心配したが、土の上で暮らしたいという彼女の望みには反対しなかった。
引越すのにさほどの労苦はなかった。
イカルスを脱出する際、荷物のほとんどは置いてきてしまったし、そのイカルス自体、ヤマトの痕跡を残さないために爆破してしまった。
今はただ、いくつもの破片が宙を漂っているだけだ。
地下都市に置いてきた荷物がないわけではなかったが、それらは梱包も解かれずにかつて暮らしていた部屋で眠っている。
4月だというのに、この寒さはどうだろう。
柚香は薄手のセーターに白いカーディガンを羽織った。温かいカフェオレの入ったマグを両手で包み、出窓にそっと腰を下ろす。
久しぶりの休日を、ひとりきりの部屋で過ごしていた。
家の隣りは、広い駐車場になっている。
セキュリティを心配した恋人が敷地の隣接する部分のほとんどを買い上げてしまったので、家の傍に見知らぬ他人の車が停められることもない。
窓からは、通りの向こうまで見渡すことができた。
もう少し先に行った処に小学校があるため、登下校時には可愛らしい子どもたちの姿が見られたが、今はまだ長期休暇中であり、通りは閑散としている。
駐車場の敷地内に桜の木が1本植えてあった。
ソメイヨシノと呼ばれるそれは、この地域を代表する品種の桜だ。
この雪は、数日後の新入生を祝おうと、桜が開花を遅らせるために降らせているのかもしれない。
柚香はそんなことを思いつつ、身を引き締めるように立つ桜を見つめた。
あの時。
―― 置いていかないでと拗ねていたら、あの人の笑顔は今もここにあったの?
―― 行くなと止めていれば、あの娘は失われずにいたの?
―― 一緒に行っていたならば、貴方と哀しみを共にできたの?
柚香は小さく頭を振った。
「今更、埒(らち)もないことを――。私らしくない、なぁ」
窓に映った自分の影に、こつんと寄りかかってみた。
窓ガラスはひんやりとしていた。まだ口をつけていないカフェオレから、ほんわりと湯気が上がっているが。柚香はマグをそっと出窓に置いた。
窓辺には、緑色の葉を溢れんばかりに伸ばしているアジアンタムの鉢が置いてある。家を替わる時に、父と義母が持ってきてくれた鉢植えのひとつだった。
はらりと舞った雪が、一瞬桜の花びらに見えて、柚香はハッとする。
「約束は、きらいよ」
小さく呟いた。
果たされなかった約束が胸に甦る。
《義父さまを悲しませるようなことはしない》
そして。
《次の桜は一緒に》
幻の桜吹雪の中、幻になってしまった笑顔が灰色の空に浮かんだ。