約   束

 ただいま、と言って久しぶりにやってきた恋人は、酷く疲れた顔をしていた。それでも微かな笑みを浮かべ、何やら大きな手荷物を持っている。それを置こうとして、テーブルを占領している品々に目を留めた。
「「それ、どうした――」」
 ふたりの言葉が重なり、そして同時に全てを理解した。
「こっちは幕之内からだ。今はどうしても戻れないからと、俺の処に送ってきた」
 真田は持ってきた荷物をテーブルに広げた。
 出てきたのは、幕之内謹製、花見弁当と団子のセットだ。
 これが昨日、真田の執務室へ届いた。しらっと軍内の特別便を使って、だ。メッセージは特になかったが、時間を作って家に帰れ、ということなのだろうとは察しがついた。まったくアイツは柚香のことになると見境がなくなるな、と少しばかり苦い思いで友人を思い遣った。

「澪──」
 小さな呟きとともに、柚香のそれは今度こそ零れ落ちた。

 大粒の涙がひとつ、はらりと零れた。
 震える肩に手をかけられ、次の瞬間にはその腕の中にいた。柚香には、溢れる涙を止めることはできなかった。

「俺は人としての資格さえないに等しい、最低の人間だ」
 今まで口にしたことのない言葉が、真田の口から吐き出された。
「俺はあの娘を見捨てた」
 柚香の手が背に回され、しがみつくようにギュッと力が込められたのを真田は感じていた。

 あの娘を守ってやれなかった。いや、守ろうとさえしなかった。
 それを選択した自分の行動が、軍人として間違っていたとは思わない。あの娘はあの時点で自分にできる最善の選択をしたに過ぎず、つまるところ、そう教育し育てたのは真田自身である。
 戦後処理に明け暮れる日々の中、真田は今もまだ燻る戦禍の爪痕に戦慄しつつ、地球と人類が生き残れた事への安堵と、ヤマトを勝利へ導いた少女への感謝と畏敬を繰り返し抱いた。
 歴史に刻まれる偉大な娘であったと。

 だが、同時に自責の念は真田を苛んだ。
 秤にかけてはならないものを秤にかけ、結果、人類の未来と存続を選んだ。娘の命を選ばなかった。親であることよりも、軍人であることを優先させた決断が真田を苛む。
 それを責める者は誰もいなかった。だが、生涯、真田は自分を許すができないであろうことを信じて疑うことはなかった。

 だから恋人が去って行くであろうことも当然の結果として覚悟していた。
 彼女は若くして家族を失いながらも、あの悲惨な戦いを生き抜いた。だからこそ、こうして赤の他人の子を育てることに苦しみを感じなかったはずがないのだ。それでも、亡くした我が子への愛情にも劣らないほどに、あの娘を慈しみ大切に育てていたのは、傍で見ていた真田自身が誰よりも知っていた。
 きっと彼女は自分を許さないだろう。
 そう確信していた。
 或いは、誰も与えてくれない自分への罰として、それを望んでいたのかも知れなかった。

「貴方はバカだわ」
「柚…」
「本当にバカよ」
 振り絞るように小さく叫んだ柚香の声が、真田の胸を刺し貫いた。
「どうして…、どうして!」
 柚香の肩に置いた手が、静かに滑り落ちた。覚悟し望んだはずの罰は、重かった。
「すまない…すまない、柚香。俺が、俺が悪いんだ…すまない…」
 娘を失った喪失感と、今また恋人を失うであろう恐怖に、己れを呪う言葉ばかりが胸に溢れた。
「すまない、柚香。俺が…」
「違うわっ」
 真田の言葉を遮り、柚香が顔を上げた。涙で頬を濡らし、眉根を寄せた柚香の思いがけない強い視線から、真田は思わず顔を背けた。
「ねえ、どうしてそんな事になってしまったの!? どっちを選んでも悲しみが残るような、そんな選択肢を選ばなきゃならない。そんな状況に、どうして追い詰められてしまったの! 最初の分岐点はどこにあったの!?」 
 真田の身体が硬直した。

 柚香の泣き濡れた顔に、沖田艦長の顔が重なる。
 偉大なる艦長・沖田は、幾度となく訪れた危機を、時には無謀とも言える判断力と決断力で見事乗り切り、イスカンダルへの航海を成功へと導いた。あれは、そういう旅だった。間違うことが許されない、一度の負けが全てを決してしまう、「次」の存在しない戦いであり、そんな切迫した状況の中に起きた奇跡だった。
 だから、真田は誓った。
 イチかバチかの選択を正しく行うことよりも、自分はそんな状況を作り上げないことに注力しよう、と。何度負けても生き残ることができる強さを得る為に努力しよう。それが自分の道であると。「こんなこともあろうかと」と評される自分の姿勢は、それを突き進めた道の途上にあった副産物に過ぎない。だからこそ、一介の科学者に戻り研究に励むことよりも、軍に残り科学局を統べる事を決心したのだ。

「柚香…」
「あの時、他に選択肢は無かった。そういう状況だったのでしょう。誰かが決断しなくちゃならなかった。貴方がその決断を下したから、他の人がそれをしなくて済んだのよ。貴方は自分がそれを引き受けることを選んだ。それが、父親であり上官である自分の役目だと思ったから」
「柚香」
「あの子だってそれはわかってる。だからこそ、貴方を信じたから、そう行動したんでしょう。貴方はあの子を見捨てたりなんか、してない。あの子だって、見捨てられたなんて思ってない。絶対に」
「柚香…」
 ほろり、と涙が零れ落ちたことに真田は気づかなかった。泣く、という行為が欠落してしまってから久しい。
「俺を、許してくれるのか…?」
 許して欲しかったのだと、初めて気づいた。
「貴方はバカね、志郎。本当にバカだわ」
 柚香の手のひらが真田の頬を包み、涙をそっと拭った。
「いつも守ってもらうばかりで、何もできなくて、ごめんなさい」

 胸を突かれた。
 この女(ひと)はいつの間に歩き出したのだろう。
 ひとり静かにそれを受け止め、己れを許すことのできない恋人をも受け止め。土に触れ、生き物に触れ、人と触れ合い。静かに、少しずつ、歩き出していたのだ。

「私も、最低の人間なのよ。貴方がいればそれでいい。それで生きていけるわ」
 柚香の頬に、新しい涙が零れた。
「でも、悲しいわね」

 真田は震える手で、恋人を抱いた。腕の中にある細い肢体の温もりを感じながら、その耳元に囁く。
「柚香。俺は決して忘れない。いつまででも憶えている。あの日々も、あの娘のことも、あの戦いのことも。同じ悲劇を、決して繰り返さない為に」
 柚香は何度も何度も頷き、そうして、やっと嗚咽が収まる頃に。
「愛して、いるわ――志郎」
 涙で頬を濡らし、それでも微笑む彼女を心から愛しい思った。

「傍にいてくれないか」
 絞り出すように、だが、するりと零れた言葉に真田は自分でも戸惑い、もう一度確かめるように言葉を紡いだ。
「約束してくれ。ずっとここにいると。君にいて欲しいんだ」
 この女(ひと)がここにいてくれれば、何があっても歩いて行ける気がした。暗闇の中、遠い灯を目指しひとり歩く姿を、ずっと見ていて欲しい、そう願った。

「私、約束は、きらいなの。でも、ねぇ、特別があってもいい――? ずっと、貴方の傍にいさせて」
「柚香――!」
 泣き出しそうな気持ちを抱えながら、真田は抱きしめる腕に力を込めた。

 果たされた約束は想い出となり、過ぎゆく時とともに記憶の中に埋もれゆくだろう。だが、果たされなかった約束は、何時までも消えることなくそこに在り続ける。それは永遠に昇華されることなく、ひとつまたひとつと降り積もっていくだろう。
 それでも、共に在りたいと願った。

「あ、でもね」
 時が過ぎ、腕の中の恋人が顔を上げた。
「ひとつ約束してちょうだい」
 真面目な顔をした柚香に、真田は戸惑う。
「あのね」

「これから3日間はお団子を食べ続けても、文句言わないのよ?」
 3秒後、ふたり一緒に笑みを交わした。
「ああ、わかった。約束する。3日間は団子でも文句は言わん」
「本当よ!?」
 ああ、と返事の代わりに触れたくちびるはまだ冷たかったが、柚香はするりと腕を抜け出した。
 黒髪の揺れる後ろ姿を、少しの切なさとともに真田は見やった。

 果たされなかった約束を胸の奥に抱えながら、それでも、俺たちは生きてゆく。
 共に──。
 窓の外には名残雪が静かに降り積もっているが、春の日差しの中、きっと明日には消えて無くなるだろう。
 季節は巡り、春がまた訪れる。

fin.
27 FEB 2009−改 02 MAY 2013 ポトス拝
背景:「Crystal Moon」
inserted by FC2 system