「今日は七夕なのよね。今夜、牽牛と織女は会えるのかしら。もう一度、あの天の川を見たいものだわね」
叶う望みの薄い願いを口にするが、まさか、数年後にその天の川を実際に渡ることになるとは 思ってもみない真田は、それに頷くことはできない。
「技術将校さんに同意を求めちゃいけないわね」
と柚香はくすりと笑った。でもね、と更に続ける。
「誰かに触れることはできるのよ？」
唐突な言葉に、思わず間の抜けた表情を向ける真田の隣で、柚香はすっと背伸びをする。 背の高い柚香の顔が近づき、ほんの僅かにくちびるが触れた。
ね？ と小首を傾げられても、驚いた真田は目を瞬かせるばかりで。
「じゃ、またね。彦星さま」
と言葉を残し、柚香は背を向けた。真田は、肩越しに手をひらひらとさせ歩み去ってゆく 後ろ姿を呆然と見ていたが、はっと我に返ると。
「真田だ。真田志郎。極東地区、第三ドッグの工場長をしている」
その声に足を止めた柚香が、次にくるりと振り返り。
「瀬戸柚香よ。中央図書館に勤務しているわ」
にっこりと笑い、そう答える。
「また、な」
「えぇ、またね」
笑みを交わし、言葉を重ね、ふたりは別れた。
長い黒髪がエレベータの扉に隠れると、代わりに柱の影から姿を現した男がいる。 それには気付いていなかった真田が、驚いた。
「おまえ…。どうしてここにいるんだ？」
「うん？ まぁ、偶然さ」
にやり、と笑ったのは、宇宙戦士訓練学校からの同期、戦友古代守である。 今は真田の懸案を一緒に乗せ、冥王星外宙域の調査に護衛艦勤務として乗艦しているはずの男だ。 地球への帰還は３日後を予定している。変更の報告は受けていなかった。
「護衛艦の調子が良くなくてな。任務交代、さ」
古代は両手を広げ、肩を竦めて戯けてみせたが、その目は笑っていなかった。
調査団にはスタッフとして真田も名を連ねている。上部の意向で宇宙へ出ることは叶わなかったが、 技術スタッフの中枢である真田に、たとえ護衛艦だろうとその変更が報告されないのはおかしい。 何かあったのだ。
真田の頭脳が切り替わる。
窪んだ眼窩を光らせて、じっと戦友を見る。怪我をしている様子は、見受けられない。 古代の乗っていた艦は真田が責任を持って整備した。敵の攻撃に耐え得る装備など現在の 地球の科学技術ではあり得なかったが、それでも、でき得る限りの整備をしている。 行って戦うだけではなく、無事、帰ってこなければ目的が達成できない任務だったのだから。
――この計画に、“顔を潰された”と言って横やりを入れていたグループを思い浮かべる。 あいつら、か？ だとすると、急に入れられたこの出張にも合点がいく。
『調査艦が帰ってくれば、寝る暇などなくなるのだから、少しばかり先に休暇をとったと思って』 などと言われれば、体よく追い出されたことはわかったが、少しは休めと部下に 勧められての２日間の出張。何をしやがった、と可能性を数え上げてみる。
急に表情を消し、自分を見つめる友人を古代は見返した。さっきまでの若い男の姿はそこにない。 『まるでコンピュータのようだ』と評されるのは、その明晰な頭脳への賛辞だけではなく、 冷静な態度が時として冷酷なものとして捉えられたり、こういう時のその表情の無さを 揶揄するものであることを、古代は知っているが。また、決してそうではないこともよく知っていた。
だから。
「今考えたところで、何も始まらないさ」
ともう一度戯けるように笑ってみせた。
調査艦は、おそらく真田の推論を裏付けるだけの情報を持って帰るだろう―― あくまでも、予測の域はでないが。それだけの感触は、調査艦の艦長からも技師たちからも得ている。
彼らが帰れば、何かが始まる。その予感が古代にはあった。そして、それは朗報ではないであろうことも。
だから。せめて、このひとときだけでも。
「なぁ、どうせたいした会議じゃないんだろう？ 飲みに行こうぜ？」
突然の誘いに驚きつつも、その無くした表情に呆れ顔が戻って来たのが嬉しくて、古代は友人の肩を抱いた。
「お前ってさ、器用なのか不器用なのかわからんなぁ？ 振られた直後に、新しい女か？」
からかいを込めて耳元で囁くと、友人は一瞬だけ顔に朱を昇らせて、ばかっ、 そんなんじゃないっ、と少しばかりムキになって否定した。
――そんな表情を見せられると、ついもっとからかいたくなるじゃないか。
誰にでも見せるわけではないそんな真田の様子を、もっと見たくて。 内心、幕之内と妙なことにならなきゃいいが、とも思ってはいるが。 もっともその時はその時さ、とも思っている。
「大体、あの娘が言ったのと同じことを、オレ、前に言ったよな？」
訓練学校時代のことだ。それは、柚香の言葉を聞いたときから、真田もわかっていたものの。
「うるさいぞっ。そんな昔の出来事なんぞ、記憶の彼方に置いてきたわ」
ちゃんと覚えていると素直に言えない真田の横で、プッと吹き出す古代守。 真田はますます顔を顰め。
「おい。飲みにいくんだろうが。置いて行くぞっ」
と大股で歩き出した。
箱舟計画が現実の問題となる前の、ほんのひととき。
気象コントロール装置の予定では、７月７日夜は晴れ。 ふたつ星を隔てる天の川が、たとえそこに無かったとしても――。
