継 承
「お疲れさま」
ホテルのエレベータを降りながら、瀬戸柚香はにっこりと同僚に手を振った。
だが。
その笑みは、エレベータの扉が閉まると共に消え去った。
巨大化するデータベースの適正化の指標作り。
と云う、なかなか各国の利害が一致しないものを、1週間続いた討議の果てに、最終議案として論じるのは、さすがにキツイ。“総論賛成、各論反対”の調整には手間がかかる。
だが、それもあと2日。
ふう、と息を吐きつつも。
「ま、太陽を制御するよりは、簡単だし。何より、涼しくなっただけでも感謝、感謝」
ブツブツと独り言を言った。
廊下の角を曲がれば、部屋まで1メートル。
「あと少し」
言いつつ角を曲がると、足が止まった。
腕を組み、柚香の部屋の扉に背を預けている男が、こちらに気付いた。
「やあ」
私服姿の夫が、笑顔を向ける。
「おかえり」
「志郎――!」
かなり、驚いた。
何しろ、3.5倍にも膨れ上がった太陽制御を成功に導いた夫は、帰還後も超多忙な日々を送っている。この2か月で顔を合わせたのは、片手で足りる程だ。
「何かあったの?」
慌てて駆け寄ったのも、無理からぬ話というもの。
そんな妻の姿に苦笑を零しつつ、つい、引き寄せるように腕の中へと抱き留めた。
「――志郎?」
柔らかい声に名を呼ばれ。
抱く肢体の柔らかさが心地よく。
口をついて出た言葉は。
「ただいま」
その声に呼応するかのように、柚香もまた、ゆっくりと身体を預けてくる。
「お帰りなさい」
オレンジの香りが、腕一杯に広がった。
真田の横にちょこんと座り、私にもちょーだい、とビールを呑んでいたはずの柚香は、ふと気付くと小さな寝息を立てていた。
確かにあまり顔色が良くない。
少し痩せたな、とその肩に手を回した。
いくら覚悟をした上での決断だと言っても、こんな男と一緒になったのでは気の休まる暇などあるまい。
頬にかかる一房の黒髪を、そっと払った。
「――俺のせいだな。すまない」
返事を期待してのことではなかったが、つい、言葉になった。
「違うわ」
胸に凭れたまま、柚香が目を開けた。うっすらと笑む。
「貴方のせいじゃない」
そう言って、また目を閉じた。
「そうか、藤咲さんね――」
少しばかりの沈黙の後、夫が突然にやってきた理由に思い至り、くすりと笑った。
「あのね、私が胃潰瘍なんかになった理由は、倫が父とケンカして家出したり、警察のお世話になったりしたからよ。由里子さんにまで泣きつかれちゃって、ホント、大変だったの」
「あの倫太郎が?」
真田が驚いた。
柚香には歳の離れた弟がいる。父親が再婚してからの子で、柚香が亡くした子ども達とあまり歳がかわらない。姉を慕う、真面目で素直な子だった。
「まあ、難しい年頃だし、いろいろあるわよね」
倫太郎が姉を慕うのと同様に、柚香も弟を可愛がっていた。
「だからね」
柚香は再び目を閉じる。
「胃を壊したお陰で、幕さんにすぐに見つかっちゃって。強引に病院へ連れて行かれてね」
思い出したのか、くすくすと笑い。
「ついでに、葵さんとこの赤ちゃんを見に行ったのよ」
「――葵さん?」
咄嗟に思い浮かばなかった。
「幕さんのお姉さんよ。――私にとってもお姉さんみたいな女性だけどね」
ああ、と得心がいった。
「それが幕さんと一緒に産科にいた理由」
柚香は相変わらず胸に凭れたままで。
「――子ども、欲しくないの?」
そう聞いた。