この手に掴むもの
「おや、局長、良くなったようですね」
翌朝、顔を合わせるなり、藤咲が言った。
やはり気付いていたのか。
今朝も言われたが、この藤咲を初めとする仲間たちが、如何に俺の健康を気遣っていてくれたのか改めて思った。かなりの無茶をしながらも健康を維持してこられたのは、壮健だからということだけが理由ではないだろう。
「藤咲、いつも済まんな」
そう言ってから、慌てて付け加えた。
「ありがとう」と。
藤咲は一瞬驚いた顔をし、にやりとした。
「昨夜は余程良いことがあったようですね」
「何のことだ?」
藤咲の気回しの良さに内心舌を巻いたが、ポーカーフェイスの下に包み込んだ。
「局長、珈琲をお持ちしました」
運ばれてきた珈琲には、小ぶりの美しい箱が添えられていた。目を上げると、秘書室のチーフを務める部下が笑んでいる。地球帰還後に配属になった女性だが、大変に有能だ。
「秘書室の皆からです」
蓋を開けると、美しく造形されたチョコレートが並んでいた。未だ物流も落ちつかない現在、これだけの物を手に入れる困難さは俺にだって想像できる。
「局長は、皆の憧れですから」
その言葉は正味であると受け取った。
「ありがとう。いただくよ」
彼女は綺麗な辞儀をし、部屋を出ていった。
勿体ないような造形のチョコを、ひとつ摘んで口に入れた。
甘く、ほろ苦い風味がゆっくりと広がる。
不意に、朝食にホットチョコレートが出てきたことに合点がいった。
たぶん天然物だったのだろう。やけに旨かった。
同時に、そう言ったときの嬉しそうな顔を思い出した。
光が弾けるような、眩しい笑顔だった。
俺は、昨夜、あんな時間、あんな体調であるにも関わらず、彼女を訪なった本当の理由に思い至った。
〈クロッカスの花言葉は、信頼。それから――〉
幼なじみが教えてくれた言葉を反芻する。
「あなたを待っています」
思わず呟いていた。
「局長?」
藤咲が入ってきたことに気が付かず、弾かれたように顔を上げた。
「――どうしたんですか」
藤咲が訝しげに尋ねる。
いや、と何気ない風を装ってはみたものの、動揺は収まらなかった。
藤咲は眉を顰めながらも、報告を始めた。
「――。報告は以上です。それから、先ほど連絡がありまして、中央図書館からは――」
思わず息を呑んだ。
表情には出していないつもりだったが、付き合いの長い部下には気付かれたようだ。
「村田くんが来るそうです。都市計画の検討の件ですから。――残念でしたね」
「時間は?」
何気ない風を装い、聞き流すふりをした。
「10時半だそうです。ですから、次の予定が――」
藤咲もそれ以上追求することはなかったが。
「では、今日もよろしくお願いします」
予定の確認を終え踵を返した後、ふと立ち止まり振り返った。
少しの間があり。
藤咲の顔に優しい笑みが浮かぶ。
「弱ったときに、逃げ込める場所があって、待っていてくれる人がいるというのは大事なんですよ。帰る処があるから、戦いに行ける。そういう場所は、得ようと思っても簡単に得られるものじゃない。特に、貴方のような人にはね。――大切だと思うなら、掴んだ手は、二度と離さないことです」
あまり見せない、藤咲の年長者らしい言葉に、咄嗟に答えることはできなかったが。
彼は、ふと笑い、部屋を出ていった。
己れの手を固く握りしめる。
――勝利を掴んだこの手は、同時にひとつの星を滅亡へと追いやった。
その事実が消えることは、決してない。
それでも、そこに重ねられた手は温かかった。
是とも非とも言わず、あるがままに受け止め、キミは笑う。
ゆっくりと、握りしめた手を開いた。
かつて、ひとりが淋しいと思ったことなどなかったが。
今日は、あの官舎の冷たいベッドも、一人で過ごす夜も、少しは堪えるのかも知れない。
今は、一抹の淋しさを抱えたまま、独り寝の夜に身を潜めよう。
再び、その手を掴むときまで――。
「さあ、仕事だ――!」
分刻みの一日が、今日も始まる。
冬の空は、春の訪れを待つように、高く青く澄んでいた。
04 FEB 2011 ポトス拝