この手に掴むもの

#04

「おや、局長、良くなったようですね」
 翌朝、顔を合わせるなり、藤咲が言った。
 やはり気付いていたのか。
 今朝も言われたが、この藤咲を初めとする仲間たちが、如何に俺の健康を気遣っていてくれたのか改めて思った。かなりの無茶をしながらも健康を維持してこられたのは、壮健だからということだけが理由ではないだろう。
「藤咲、いつも済まんな」
 そう言ってから、慌てて付け加えた。
「ありがとう」と。
 藤咲は一瞬驚いた顔をし、にやりとした。
「昨夜は余程良いことがあったようですね」
「何のことだ?」
 藤咲の気回しの良さに内心舌を巻いたが、ポーカーフェイスの下に包み込んだ。

「局長、珈琲をお持ちしました」
 運ばれてきた珈琲には、小ぶりの美しい箱が添えられていた。目を上げると、秘書室のチーフを務める部下が笑んでいる。地球帰還後に配属になった女性だが、大変に有能だ。
「秘書室の皆からです」
 蓋を開けると、美しく造形されたチョコレートが並んでいた。未だ物流も落ちつかない現在、これだけの物を手に入れる困難さは俺にだって想像できる。
「局長は、皆の憧れですから」
 その言葉は正味であると受け取った。
「ありがとう。いただくよ」
 彼女は綺麗な辞儀をし、部屋を出ていった。

 勿体ないような造形のチョコを、ひとつ摘んで口に入れた。
 甘く、ほろ苦い風味がゆっくりと広がる。
 不意に、朝食にホットチョコレートが出てきたことに合点がいった。
 たぶん天然物だったのだろう。やけに旨かった。
 同時に、そう言ったときの嬉しそうな顔を思い出した。
 光が弾けるような、眩しい笑顔だった。
 俺は、昨夜、あんな時間、あんな体調であるにも関わらず、彼女を訪なった本当の理由に思い至った。

〈クロッカスの花言葉は、信頼。それから――〉
 幼なじみが教えてくれた言葉を反芻する。
「あなたを待っています」
 思わず呟いていた。

「局長?」
 藤咲が入ってきたことに気が付かず、弾かれたように顔を上げた。
「――どうしたんですか」
 藤咲が訝しげに尋ねる。
 いや、と何気ない風を装ってはみたものの、動揺は収まらなかった。
 藤咲は眉を顰めながらも、報告を始めた。
「――。報告は以上です。それから、先ほど連絡がありまして、中央図書館からは――」
 思わず息を呑んだ。
 表情には出していないつもりだったが、付き合いの長い部下には気付かれたようだ。
「村田くんが来るそうです。都市計画の検討の件ですから。――残念でしたね」
「時間は?」
 何気ない風を装い、聞き流すふりをした。
「10時半だそうです。ですから、次の予定が――」
 藤咲もそれ以上追求することはなかったが。
「では、今日もよろしくお願いします」
 予定の確認を終え踵を返した後、ふと立ち止まり振り返った。

 少しの間があり。
 藤咲の顔に優しい笑みが浮かぶ。
「弱ったときに、逃げ込める場所があって、待っていてくれる人がいるというのは大事なんですよ。帰る処があるから、戦いに行ける。そういう場所は、得ようと思っても簡単に得られるものじゃない。特に、貴方のような人にはね。――大切だと思うなら、掴んだ手は、二度と離さないことです」
 あまり見せない、藤咲の年長者らしい言葉に、咄嗟に答えることはできなかったが。
 彼は、ふと笑い、部屋を出ていった。

 己れの手を固く握りしめる。
――勝利を掴んだこの手は、同時にひとつの星を滅亡へと追いやった。
 その事実が消えることは、決してない。
 それでも、そこに重ねられた手は温かかった。
 是とも非とも言わず、あるがままに受け止め、キミは笑う。
 ゆっくりと、握りしめた手を開いた。 

 かつて、ひとりが淋しいと思ったことなどなかったが。
 今日は、あの官舎の冷たいベッドも、一人で過ごす夜も、少しは堪えるのかも知れない。
 今は、一抹の淋しさを抱えたまま、独り寝の夜に身を潜めよう。
 再び、その手を掴むときまで――。

「さあ、仕事だ――!」
 分刻みの一日が、今日も始まる。

 冬の空は、春の訪れを待つように、高く青く澄んでいた。

fin.
04 FEB 2011 ポトス拝
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