この手に掴むもの

#03

「もぉ…」
 ふと目を覚ますと、また、ベッドサイドに柚香がいた。困った顔をして、見下ろしている。
「どうして軍人ってのは、こうなのかしらね」
 彼女は大きな溜め息を付いた。
「幕さんもそうだったけど、ねぇ。来る度に目を覚まされたんじゃ、おちおち様子を見に来られやしないじゃない」
 なるほど、そういう事か。
 まあ、それは仕方がないだろう。この程度の熱で、他人の気配に気付かないような事はない。いや、逆にある程度までは敏感になっていくものだ。
 もっとも、気付かないふりができる状態でもなかった、というのが正直な処だが。

 壁に目をやると、時計の針は2時間ほど進んでいる。
(この家はアナログなものが多いんだな…)
 改めてそう思った。時計もデジタルではなかった。木枠の中、音もたてずに秒針が回っている。

「汗かいてるから、着替えて。起き上がれる?」
 眩暈は収まったようだが、熱は上がったのかもしれない。どうにか起きあがり、着替えた。
 再び横になると、汗で濡れた布団には大判のタオルが敷かれており、氷枕も新しいものになっていた。
「すまない…」
 心遣いが、嬉しい。
「あのね、志郎」
 柚香が覗き込む。
「そういうときはね、『ありがとう』って言うのよ。謝る必要はないわ」
 言われて、ああ、そうか、と思う。
「すまん…」
「あ・り・が・と・う」
 重ねて言われ、苦笑した。
 柚香の手が、額に触れた。
 そのひやりとした感触が、心地よい。

 だが。

「39度越しそうね」
 溜め息と共に額から離れようとした手を、掴んだ。
 驚いてバランスを崩した柚香が、咄嗟にもう一方の手をベッドについて身体を支えた。
 息を呑み、見開かれた目が、凝視している。

「――何かあったのか?」

「え?」
「手が」

 あ、という顔をした。
「ごめん。もしかして痛かった?」
 痛くなどなかったが、その手がザラザラとしているのを感じるほどに、柚香の手は荒れていた。
「仕事でね。紙と薬品を頻繁に触っていたから」
 柚香が済まなさそうな顔になった。
 なるほど、図書館ならそういう事もあるのだろう。

「ごめんね。ざらざらして、不愉快だったでしょ」
「そうじゃない」
 不愉快だったわけではない。気になっただけだ。

「そんなに荒れてしまう前に、手袋をするなり、保護剤をつけるなりした方がいい。それに、ちゃんと手当もしろよ。――キミの手は治るんだからな」
 その言い方が気になったのだろう。
「――志郎?」
 掴んでいた手を離した。
「そうやってキミの手が荒れるのは、生きている証だ。手当をすれば、また綺麗になる。
――俺の手は、だた、劣化するだけだがな」

 外皮に多少の再生機能はあるが、義肢は基本的には消耗品だ。劣化し、使用不能になれば交換するしかない。
 初めて義肢を交換した時の、あの奇妙な感覚は今も忘れる事ができない。
 己れの身体を離れた途端に、ひとつの部品と化してしまったそれを、今でも思い出す。

 自分の手をかざし、眺めてみた。
 外気に応じて多少の温度変化はあるものの、熱があっても汗ばむこともなく、火照ることもない。恒温機能があるため、今夜のように気温が低くくとも冷たくはならない。保温のための手袋はあったに越したことはないが、無いからといってかじかんでしまうこともない。グローブが必要なのは保護のためだ。
 何も着けていない手には、あちこちに傷があった。

 フッと笑いが浮かぶ。
 あの大航海を経てきたのだから、当然と言えば当然であろう。
「そろそろ、交換の時期だな」
 呟きが口に出たのは、熱の所為か。
 柚香が、静かにベッドの端に腰を下ろした。
「この手で戦い、明日を掴み取ったのでしょう?」 
――ああ、そう、だ…。

 消耗品ではあっても、それが己れの為に作られた大切なものであることは知っている。そこに、込められたいくつもの想いがこの手を作り上げている。生身ではない、血の通わぬものであり、だが、ただの部品でもなく。
 それが、この手。
 ただ、今でもあの奇妙な感覚が忘れられないだけだ。

「柚香…」
「なあに?」
「この手で、俺は――」
 いや、よそう。口にしたところでどうにもなりはしないのだ。
 民族の存亡を懸けた戦いがあり、俺たちは勝った。だから、今がこうしてある。

 急に口を噤んだ事を訝しむ様子も見せず、柚香は俺の手に触れる。
 手を預けたまま、目を閉じる。
 その手は少しざらついていたが、温かく、柔らかい。
 眠りを誘ったのは、安心感だったのかもしれない。
「鬼の霍乱って知っていて?」
 柚香の声は、穏やかだ。
「ゆっくり、おやすみなさい――」
 囁きは、眠りに落ちていく身体の奥深くに刻まれるような気がした。

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