この手に掴むもの

#02

 とはいえ、気を失うようなことはない。
 軍人として当然だ。柚香の肩を借りながら、客間のベッドに横になった。
(不覚。俺としたことが…)
 まだ揺れている天井を見るとも無しに、部屋の中を何気なく見渡す。いざという場合の行動経路を確認してしまうのも、習い性だ。
 部屋の中は綺麗に片付けられおり、あまり余計なものはない。
 L字に並べられた焦げ茶色のソファがふたつ。部屋の隅に机が置いてあるところが彼女らしい。ベッドの脇の壁には備え付けのクロゼットがひとつ。窓には濃緑のカーテンが吊してあった。

(――そうか。藤咲も気付いていたんだな…)
 唐突に、今日は早く帰れとやけに煩かった部下を思い出した。
 体調不良を言い立てた処で、自覚がなければ聞く耳など持たない上官の性質を、よく分かっているということか。

 開いたドアから、廊下を隔てたリビングの様子が洩れてくる。
 カランカランと音がするが、柚香は何をしているのだろう。
 熱でぼんやりとした頭が上手く働かず、思考がまとまらない。
 こんな経験をあまりしたことがない。
 寝込むだけならば、手足を失った時に、いやと言うほどベッドに縛り付けられていたが、俺は元来頑丈だ。その上、ここ数年は問題が山積みで、多少具合が悪くともこんな風に寝込んでいるヒマなどなかった。人間、気が張っているときは、不調を感じてもそれなりに過ごしてしまうものだ。
 つまるところ、少しは余裕が出てきた、ということなのかもしれない。

 間接照明の柔らかい明かりが眠気を誘う。暖かい布団と清潔なシーツが心地よく、うつらうつらとしかけたが、他人の気配に意識が戻った。

 柚香が氷枕を手に、ベッドサイドに立っている。
「どう? お医者様に往診をお願いする?」
「いや…その必要は、ない…」
「――そう?」
 きっぱりと言い切ったつもりだが、声に力はなかった。
 柚香がじっと見つめている。
「――そうね」
 彼女に医療の専門知識は、勿論、ない。

 ここ数年の地下都市では、病気に罹っても満足な治療を受けられない事も多くなっていたし、暴動や崩落等の事故が発生した場合、手当に回ったのは医療従事者だけではなかった。互いに助け合わなければ、生き延びられなかった。
 結果として、素人ながらも初歩的な救急医療をある程度身に付けた人間は多い。専門家の知見には及ぶべくもないが、少なくとも、緊急の治療が必要であるかどうか、医師が到着するまでの間に何ができるかといった判断を身に付けていた。
 俺は発熱しているといっても、職場では毎朝藤咲が簡易検査をチェックしており、感染症や内臓関係の疾患は心配するに値しない。オーバーワークに拠る発熱といったところか。多分、ぐっすりと眠ればよくなる筈だ。
「そうね、様子をみましょう」
 柚香の判断も同じだったようでホッとした。

「ちょっとゴメンね」
 そう言われて何の事かと思う間もなく、頭を抱えられた。目と鼻の先に、彼女の身体が迫り、息を止めた。
 こちらの様子にはとんとかまう事もなく、柚香は氷枕を差し入れる。ゴムの容器に水と氷を入れたものをタオルで巻いただけ、というシンプルなものだったが、頭を下ろすと、その加減が絶妙だった。
「随分、アナクロだな――」
 瞼を閉じると、たぷんとした感触が心地よかった。
「気持ちいいでしょ?」
 ああ、いい気持ちだ――と呟くように返事をしたが。
「食欲は?」
「いや」
 そういえば、昼飯も食べる気がしなくて摂らなかったが、そうか、この為だったんだな、と今更得心した次第。
「とりあえず、これだけは飲んでちょうだい」
 少しばかり身を起こして、差し出されたそれを飲んだ。水分補給に栄養剤といったところだろう。軍でもよく使われている。
「して欲しいことは?」
 首を振る。
「そう? じゃあ、隣りにいるわね」
 あれこれと構い過ぎないのはありがたい。
「柚香」
 ベッドサイドを離れた柚香が振り返った。
「すまん、な」
「バカね」
 一笑に付された。
 その後ろ姿を見送ると、目を瞑った。
 急速に、意識が遠のいた。

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