勿忘草
わすれなぐさ

written by pothos

 今でも耳に甦るあの優しい声を懐かしみながら、柚香は暗い空を見上げた。
「こうしていても、雨が止むわけじゃないしね」
 さて、と軽く決意をして持っていた鞄を頭にのせ、雨の中に飛び出そうとした瞬間、後ろから大きな腕が柚香を抱き込んだ。
 驚く柚香に声が聞こえる。

「まったく。やるとは思ったが本当にやるのか、キミは。雨の中、傘もなく飛び出していくのは、まだ自殺行為だぞ」
 大きな溜息と共に、その人は柚香を離した。
「あら、志郎……どうしてここに?」
 駆け出しそうな心臓をはたと捕まえ、何事もなかったかのように笑顔で柚香は振り返る。

「今日はこっちでデスクワークだったんだ」
 隣接する防衛軍科学局を指差したのは、局長である真田志郎だ。
「幕之内から飯を食いに来いと連絡があったが」
 幕之内は真田とは同期の主計課の軍人であり、湊とは兄弟同然に育った仲である。柚香と家族同様の付き合いをしているのも、至極当然の成り行きというものだ。
「まあ! さすが幕さん!」
 柚香が手を叩いて喜ぶ。何しろ、食事の支度がしてあるのは柚香の部屋なのだ。

「それで、貴方は何日家に戻ってないの?」
「1週間、かな。毎日着替えてはいるんだが、わかるか?」
 当然とばかりに柚香は頷いた。柚香にわかることが幕之内にわからないはずがない。当然の呼び出しである。というのも、地下都市時代に真田の様子を見かねた幕之内が強引に食事に誘ったのがきっかけで、食事会の常連になっているのだ。

 まあいいさ、と真田は持っていた傘を広げ、行くぞ、と心持ち首を傾げた。
「……私の傘は?」
 柚香が眉を顰める。
「他人の分まで持ち歩いてるわけないだろう。どうせ駐車場までだ。一緒でも濡れはしないだろう」
 そう言うと、二人で入っても十分そうな大きな傘を差し掛けた。

 柚香は両手をちょっと腰にあてて、にっこり笑ってみせる。
「あのね、前にも言ったと思うけど、貴方は目立つのよ。『局長』と噂にでもなって、嫁のもらい手がなくなっちゃったらどうしてくれるわけ?」
 何を言っていると眉を顰めた真田が辺りを見渡すと、行き交う人がちらちらとこちらを見ているのがわかった。

「わかった? 貴方に人目を気にしろとは言わないけど、自分が有名人だってことは自覚してくれるかな?」
 両手を広げて大袈裟に嘆いて見せたが、真田はふんと鼻で笑い、そんなことは気にしても始まらんだろう、とくるりと背を向ける。
「はいはい。言った私がバカでした」
 肩を竦め後を追おうとする柚香の前で、大きな背中がふと立ち止まった。
「……もし、どうしてもみつからなければ、俺がもらってやる」
 思わず息を飲んだ柚香の前にある大きな背中が、少し揺れたような気がした。

「なら、食いっぱぐれる心配はないか」
 頬を染めた柚香はくすりと笑い、真田の待つ大きな傘へとぴょこんと飛び込んだ。

 どこかで、湊が微笑んでいるような気がした。

fin.
02 SEP 2007
20 NOV 2019 加筆修正
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