勿忘草
わすれなぐさ

written by pothos

 後ろの岩壁に寄りかかって立っているその人は、何だかとても穏やかそうな人で、笑うともっと優しげで、私はちょっと安心した。
 私が名乗ると、瀬戸 湊(せと・みなと)です、 楠木先生のところで助手やってます、と彼は自己紹介をした。ここで簡単に信用してしまうあたり、自分でも迂闊だとは思うけれど、でも、彼の笑顔には人を安心させる優しさがあったのだ。
 私よりゆうに20cmは大きいであろうその人は、本当にクマのぬいぐるみのようで、クスリと笑ってしまった。
「そこは雨があたるだろう? よかったら、こっちへきて座らないかい?」
 足元の平らな岩を指差されて、私は素直に彼の隣へ腰をおろした。

 隣に座ると微かにオレンジの香りがして、ふと彼を見上げると目が合ってしまい、私は少し慌てた。
「あ、あの。どうしてここにいたの?」
「ボクも一応植物研究家の端くれだからね」
 彼は私の質問にそう答えると、ちょっと口を噤んだ。

「……っていうのは、まぁウソじゃないんだけど」
 チラリと私を見る。
「本当は内緒にしてくれって言われてたんだけどね。……橘先生のお嬢さんがひとりで出かけたから、ケガなんかしないように様子を見ててくれ、ってね」
 そして、ちょっと困ったように笑った。

「……それ、もしかして」
 私の表情が硬くなったと思う。ひとりで出かけるのは危ないと、父以上に心配していた人がいたからだ。
「そう。由里子女史に頼まれたの」
 ふうん、と何気なさを装い、私は視線を遠くに移した。
 少し先の地面に瑠璃色の小さな花がたくさん咲いていた。

「由里子さんて、誰にでも優しいんだね」
 視線を戻すことなく、呟くようにそう言うと、彼は笑った。
「キミだから、でしょ?」
 その声があんまり優しくて、温かだったから。
 私は会ったばかりのその人に、まだ、ろくに言葉も交わしていない、どんな人なのか何も知らないその人に向かって、誰にも聞けなかったことを口にしていた。

「お父さんは、お母さんを忘れてしまったの……?」

 私の母は5年前に他界している。
 父はその後ひとりで私を育ててくれたけれど、先日、由里子さんという女性を紹介された。父よりもまだずっと若いその人は、父と同じ研究家で、笑うとえくぼのできるとても可愛らしい女性だった。そして、優しいその人を私はとても好きになった。
 だから、反対する理由はどこにもない。
 でも、どうしてもひとつのわだかまりが心に引っかかったままだった。

「心から愛していた人を想い続けていても、新しい恋はできるんじゃないかな」
 湊は瑠璃色の花をみつめながら、静かにそう言った。
 私はその言葉がとても哀しくて、小さく唇をかんだ。
「花は毎年同じ花を咲かせるのに、人は違うんだね。いなくなったら忘れられちゃうんだ……」

 いつか私は膝を抱え込み、顔を膝にくっつけ蹲るように小さくなっていた。
 雨が葉にあたる音だけが、聞こえた。

「……同じように見えても、去年咲いた花と、今年咲いた花は同じじゃないよ」
 湊がポツンと言った。
「数百年前からここに在り続けるこの木々も、決して同じ姿のまま時を刻んでいるわけじゃない。自然は変わっていく。変わるからこそ、こうして在り続けることができるんだよ」
「でも、私のお母さんはお母さんだけなの」
 決して言うまいと思っていた言葉が口をついた。
「……お母さんが好きなんだね」
 母の面影が浮かんだ。いつも笑っている、陽気で朗らかな人だった。
「由里子さんが嫌いなわけじゃない。私のことを大事にしてくれているのも知ってる。でも、やっぱりお母さんじゃない」
 湊は私の言葉を否定することなく、静かに頷いてくれた。
「お母さんは、お母さんだけでいい。私はお母さんを忘れたくない……!」
 泣くまいと思っていたのに、堪えきれない涙が頬を伝った。
「新しい時を刻んだからって、それまでの時を忘れる必要はないんだよ」

「……でも!」
 その時、湊が私の頭をポンと叩いた。
「大丈夫。お父さんは、お母さんのこともキミのことも忘れたりしない。それでも、キミが淋しいのならそう言えばいいんだよ。『私を忘れないで』って、あの花のようにね」
「でも……」
「大丈夫だよ」
 私の頭を優しく撫でる湊の手は大きかった。
「たとえ由里子さんと仲良くなっても、キミはお母さんのことを忘れたりしない」
「……本当に?」
「好きな人が増えると、きっとキミの人生は豊かになる」
 涙でくしゃくしゃの顔をあげると、そこには陽だまりのような湊の笑顔があった。
「大丈夫」
 私は頷き、微笑った。

 笑ってすっきりしたら、急に恥ずかしくなった。慌てて涙をふいて空を見上げると、いつの間にか雨は止んでいた。
 所々に青い空がのぞき、雲の隙間から降り注ぐ光の帯の下には、瑠璃色の花がキラキラと輝いていた。

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