勿忘草わすれなぐさ
柚香は最後のレファレンスをまとめると、よし、と小さく呟き、モニタのスイッチを切った。手早く荷物をまとめ、まだ残っている仲間に「お先に」と声をかけ、部屋を後にする。
階段を下り1階の広々としたエントランスを抜け、中央玄関へと向かう。強化ガラスの向こうにある既に暗い空を見上げた。
……定時で帰っていれば、今頃は部屋で晩ご飯だったかな。
小さな溜息を付きつつも、仕方ないかと呟きながら、真新しい中央図書館の扉をくぐる。
外へ出ると、サッとあたりの気配が変わった。
しっとりとした冷気が肌に纏い付く。
……そういえば、雨の予報が出てたんだっけ。
サァーと音をたてて小さな雨粒を落としている空は暗く、当分止みそうにない。傘を持っていない柚香はちょっと大きめの鞄を胸に抱え、どうしたものかと小首を傾げた。
ヤマトがイスカンダルから放射能除去装置を持ち帰り、4か月が経つ。人々は希望を胸に、ようやく地上で活動を始める。彼らを祝福するはずの恵みの雨も、今はまだ、完全に浄化されてはいない。それでもその雨音は、人々に遠く懐かしい昔を思い起こさせた。
……あの時も、雨が降ってた。
柚香はもう決して還ることのない優しい人の笑顔を、鮮やかに思い出した。
私は中学生だった。
植物研究家の父は、温帯モンスーン気候帯における植生を調査している。数年前母を亡くした頃から、父は調査に私を連れていくようになった。その時の調査区域は関東地方にある里山から自然保護区にかけての丘陵地帯で、一昨日から、父と私はそこを管理している楠木(くすのき)博士のもとを訪れていた。
楠木博士は、里山の研究と穀倉地帯の管理をされている、父よりもずっと先達の方だ。父は博士と親しくさせて頂いていたので、学校は1週間の休みをとった私も一緒にお世話になっていた。
雨が降ってきたのは、私がひとりで裏山にいる時だった。
そこは前日に楠木博士が案内してくれた場所だったし、携帯もある。もう一度、あの景色が見たくて、私はひとりで出かけた。
クスノキが、少しだけ開けた丘にポツンと一本だけ立っていた。
小さくはなかったけれど、驚くほども大きくはない。そんな樹が、ただ青空を背に風にそよいでいる姿に私はとても心惹かれた。
その樹の根本に座り込み、幹にもたれて高い梢を見上げる。緑色の葉が風にさやさやと揺れ、重なる葉は濃い陰を作り、そして、その隙間から青い空が覗いていた。
そうして風に吹かれているのがただ気持ち良くて、私は暫くそうしていた。
いつのまにかうたた寝をしてしまっていた私が、頬に落ちる水滴に気付いた時、空はすでに雲に覆われていた。
パラパラと落ち始めた大きな雨粒に慌てて、私は出かける前に博士が教えてくれた場所へと急いだ。気持ち良く青空が広がっているようにしか見えなかった私とは違って、博士には天候の変化も、迂闊な私の性格もお見通しだったに違いない。丘からすぐ近くにあるそこは、大きな岩が突き出すような形で雨を遮っている、雨宿りには絶好の場所だった。
その場所に着いた時、既にそこには先客がいた。
まだ若い大柄な男性の姿に、私はつと足を止める。いくら迂闊な私でも、誰もいない、叫んでも誰にも聞こえないようなこんな場所で、見知らぬ男性とふたりきりとなれば警戒する。
一応、「こんにちは」と声を掛けると、その人はやわらかな笑顔をこちらに向けて、小さく頭を下げた。
その笑顔に悪い人じゃないかもしれないと思いつつ、それでも、念のため、その人とは距離のある一番隅の方に足を進めた。
振動音に気付き、私はポケットから携帯を出す。父からだった。
「――うん。着いたよ。そう。いるけど。え?」
GPSで場所は確認できるものの、心配になって連絡をしてきたようだ。近くに見知らぬ男性がいると言ったら、どんな人だと聞かれた。
私は改めてその人を頭のてっぺんから爪先まで一瞥し、答えた。
「おっきなクマさんみたいな人よ」
携帯の向こうで、父が大笑いしている。
「何よ。大丈夫だから。うん、心配しないで。雨が止んだら帰るから」
私が携帯を切ると、その人が口を開いた。
「やぁ。キミが、橘博士のお嬢さんだね?」
低く柔らかく響く湊(みなと)の声。
決して忘れることのないその声を、私はその時初めて聞いた。