桜咲く日に

ライン

「随分、早いんだな」
 貴方が尋ねる。
 昨夜も帰っていないのね。もう幾日になるの?
「昨夜科学局から、ウチの資料室に急な問い合わせが入りましたので」
「そ、それはすまない」
 じろりと向けた私の視線を、貴方はバツが悪そうに受け止める。
「冗談です。そのためにこんな早朝から出勤してるわけじゃありません」
 くすりと笑ったら、貴方が困ったような顔をしてみせるから、私はつい――。
「ですが、局長はきちんと入浴されて着替えられた方がいいと思いますよ」
 貴方はびくりとして、ほんの少し後ずさった。
「う、そ」
 ぺろりと舌を出してみせた。
「――柚香!!」
 私の名を、貴方が呼んだ。

「ね、朝ご飯食べに行かない? おいしいモーニングのお店を知ってるんだ」
 笑いが収まらないまま、誘ってみた。
「こんなむさ苦しいツラで良ければ、な」
「やあね。拗ねないでよ」
 むくれ面の貴方が可笑しくて、私は笑い続けた。
 

 桜の花びらが一枚舞い落ちる。
「ソメイヨシノも満開だな」
 貴方は桜の樹を見上げる。
「また、来年も咲くといいわね」
「ああ勿論だ。必ず咲かせてみせるさ。この星はまだまだこれからだ――」
 貴方はそんな風に力強くも笑うのね。

 ねえ。貴方は誰?
 第三ドックの工場長だったよね?
 ヤマトの技師長?
 科学局局長?

 ――どこまで行くの?

 朝飯に行くぞ、と歩き出した貴方の背に、私が心の裡で問いかけても。
答えが返るはずもない――。

桜アイコン

「柚香?」
 一緒に歩き出した気配がないのを訝しんで、貴方が振り返った。
 私は慌てて走り寄る。
「ねえ。もちろん、志郎のおごりよね?」
「――? どうしてそうなるんだ?」
 貴方は眉間にしわを寄せてみせる。
「あら。可愛い女の子にごちそうするのは当然でしょう?」
「――どこに、可愛い女の子がいると?」
「志郎、目が悪いなら検査した方がいいわよ」
 同じように眉間にしわを寄せてみせたら、貴方と目があって、ふたり一緒に吹き出した。

 貴方は、くっくっと笑う。
「ま、なんだ。実は、昨夜やっかいな仕事がひとつ終わって、今朝はなかなか爽快だ。少しぐらい馳走するのは(やぶさ)かではない」
「あら。苦しい言い訳を聞いてさしあげても、よろしくてよ?」
「仕方ない。素直じゃない返事でも聞いてやろう」
 そしてまた、ふたり一緒に笑った。

 そう、こんな風に笑い合えればそれでいい。
 貴方が誰でもあっても。
 どこまで行こうとも。
 私はここから貴方を見ている――。

桜アイコン

「できることなら桜の下で死にたいと言った歌人もいたけど、でも笑える方がいいわね」
「西行か――。突然、どうしたんだ?」
「別に? 思い出しただけよ」
 そうして、ふたり一緒に桜を振り返った。

「来年も一緒に花見ができるといいな」
 ふと、貴方がつぶやくようにそう言うから。びっくりした私はすぐに返事ができなかった。
「柚香? 俺は何か変なことを言ったか?」
 私はやっと首を振った。 
「――そうね。また一緒に来られるといいわね」

 朝靄がすこしずつ薄れてきた。
 きっと今日は好いお天気になるわ。お花見日和ね。

 『願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃』 西行

 朝まだき、春爛漫の頃。

fin.
14 APR 2010 ポトス拝
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