あなたの許へ
「本当に帰っちゃうんだね。淋しくなるなあ」
「あら。早く帰れ、って言ったのはだあれ?」
「え、そんな事を言ったヤツがいたのかい? なんてヤツだ。俺がとっちめてやる」
しらっとそう言う加藤に、まあ、と柚香は笑みを零した。
2日後、宙港の出発ロビーで加藤は柚香を見送っている。もちろん、そこに真田の姿はない。
突然にやってきて回りを驚かせた真田だが、やはり多忙であることに変わりはなかった。
無理を言ったツケは瞬く間に回ってきた。
その夜遅くに科学局からの通信が入り、結局、翌朝一番の特別機で地球へと帰って行ったのだ。
「一日も席を空けていられないなんて、真田さんも相変わらずなんだね」
「うーん。そこまでは酷くなさそうだから、タイミングの問題だと思うけど」
柚香はそう笑うが。
時間がとれるまで待たず、無理を押してまで来たってことだよな、この女(ひと)のために、と目の前の女を改めて見た。
すらりとした身体は華奢ではあるが、女性にしてはかなり長身だ。加藤と並んでもさほど変わらない。
実は抜群のプロポーションをしているということに加藤が気付いたのは、昨日だったりする。身体にフィットするフライトスーツ姿を見て驚いた。長い黒髪は艶やかで美しい。その声は柔らかく、十二分に人を惹きつけた。
だが、誰もが振り返るような美しさや華やかさを持つわけではなく、こうしていても、群衆の中に紛れてしまうような女だ。
だが、真田にとって代え難い何かを持っていることは、何となく分かるような気がした。普通に、それでも真っ直ぐに生きてきた人間のしなやかさは、加藤らのような“特別”なヤツから見ても魅力的だ。
「なあに?」
視線に気付いて、小首を傾げた。加藤は、オレンジの香りが広がってゆくのを心地よく感じながら、尋ねた。
「宇宙は怖かった?」
少しの間、柚香は言葉を探していたが、静かに首を振った。
柚香が恋人と一緒に帰らなかったのは、艦載機の体験搭乗があったからだ。
「俺が載せてやるのに」
と真田が拗ねたというのは笑ったが、月での体験搭乗では僅かだが宇宙へ出ることができるというのが、地球でのそれとの大きな違いだった。宇宙へ出てみたいのだ、と柚香は言っていた。
「何もない宇宙は怖い処だと思っていたけど、でも、そうじゃなかった。
――懐かしい、優しい処。そこにいれば、いつでもみんなに会えるような、そんな処だった」
柚香はゆったりと微笑んだ。
「宇宙へ還りたい、というのが何となくわかるような気がしたわ」
「柚香さんには、宇宙戦士の素質があるよ」
加藤は片目をつぶって見せた。
初めての宇宙で、そう感じる人間がどれくらいいるだろう。もっとも、艦載機乗りなんてのはそんなヤツばかりだけどな、と加藤は思うが。
或いは、大切な人を亡くした人間は、あの果てしない星の海にその面影を求め、そう感じるのかもしれない。
搭乗開始のアナウンスが流れ、回りの人間がゲートに向かって動き出した。
「いろいろ、ありがとう」
「こちらこそ。楽しかったですよ」
柚香が差し出した手を、握り返した。偶然がもたらした、僅かな交錯の時間だったが。
「次に会えるのは結婚式かな」
少しばかり戯けてみせたが、柚香はただ笑っただけだった。
「さようなら。お元気で」
「柚香さんも」
静かな笑みを残して、柚香は背を向けた。
誰もが、いつかはあの星の海へ還る。だから、あそこは懐かしく慕わしい。だが、あそこへ行くのは最期の時だ。
地球のために明日のために戦い、みな大切な人の許へ帰って行く。温かい血の通った人の処へ。
帰る場所があるからこそ、俺たちはこうして戦える。
だから、頼みます。いつまでもそうして居てやってください。きっと、貴女があの人の帰る場所だから。
長い黒髪が揺れる背を見つめながら、加藤は心の裡で呟いた。直接、伝えても良かったのかも知れない。だが、言葉にしなくてもそれは伝わるような気がして、加藤はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。