あなたの許へ
「どうして――」
しばらくの沈黙の後、呟くように言葉が洩れた。
「ああ。その、出張があってな」
真田の返事が加藤に大きな溜め息をつかせた。
「別に、多忙な局長の手を煩わせなきゃいけないような案件じゃなかったんですけどね」
加藤の言葉に、真田は困ったような表情を浮かべた。
不器用なのだ、と加藤は思う。
何があったのか知らないが、迎えに来たと言えないのは真田らしいといえばそうなのかもしれない。
だが、加藤も迎えに来いとは言わなかった。ただ、こっちにこういう女性がいる、と伝えただけだ。あの時「ありがとう」と言った真田は、嬉しいような安心したような、それでいて困ったような、忘れられない表情をしていた。
それが2日前の話だ。
さすがに加藤も、この多忙な真田自身がやってきたのには驚いた。
「どうして――?」
今度の柚香の言葉は、加藤に向けられていた。
「初めはね、幕之内さんかと思ったんだけどね」
加藤の話なら、どんなことでも柚香は楽しそうに聞いていた。だが、その中に反応の違う話がいくつかあることに気付いた。
ひとつは幕之内の話だ。明らかに知り合いなのだろうと予測ができた。だが、それを確かめられなかったのは、その話が真田へと繋がった時の柚香の笑みを見たからだった。
「とても綺麗だったんですよ、柚香さんの笑顔が。真田さんにも見せたかったなぁ。幸せそうな、しみ通るような、そんな表情で。だから、きっと特別な人なんだろうと思って――」
「柚香」
呼びかけに顔を向けた。
「その、今すぐに帰らなくてもいいんだ」
困ったような顔をして真田が言う。おやおや、と加藤は肩を竦めた。
「――迎えに来てくれたんじゃないの?」
柚香が淋しそうに微笑んだ。
「いや、そうじゃなくてだな。ああ、そうなんだが。その。――俺は何を言っているんだ」
顔をごしごしと擦りながら、真田が困ったように言った。
全く、あの冷静沈着、頭脳明晰な技師長と同一人物だとは思えない、とやや呆れ顔の加藤である。こんなにも不器用な人だとは思わなかった。
ようやく意を決したのか、真田が話し始めた。
「仕事以外で月へ来たのは、あれ以来初めてだ」
加藤がハッとした。真田が四肢を失った事故が月であったことを思い出したのだ。
「志郎」
「すまない。――その。月は不安なんだ」
真田が言葉を探すように、ぽつりとぽつりと言う。
「キミが帰ってくるまで待っていようと思っていたんだが――。月はだめなんだ。もう二度と帰ってこないような気がしてな。その、すまない。――だから、その。な」
やはり上手くは言葉が出てこない様子を、柚香はやわらかい笑みで受け止める。
「私もね」
ややもして真田が柚香を見やった。
「私も、あれ以来初めて、あの里へ行ってみたわ――」
真田が幼少時を過ごし、柚香が幸せな時を過ごしたあの里は、遊星爆弾によってこなごなになってしまっていた。
「もう何も残っていないと思っていた。なくなってしまったと思っていたの。でも、ね」
柚香は静かに真田を見上げた。
「また樹が植えられて、森ができていたわ。若い人たちが新しい里を造って、新しい暮らしを始めていた――。もう私の知っている森ではなかったけど、ね」
哀しそうに微笑み、視線をゆっくりと暗い宇宙へと向けた。
「月(ここ)へ来たのは、宇宙へ行ってみたかったから。
宇宙へ出ることができたら、貴方に近づけるかもしれないと思って――」
でも、ね。
「やっぱり分からなかった。
毎日、宇宙を見上げてみたけれど、やっぱりここは私の場所ではない気がして。貴方にはもうこれ以上近づけないのかと思った――」
柚香が静かに目を伏せると、暫しの沈黙が訪れた。
名を呼ばれて、不安そうに顔を上げた。
「わからないなら、そのまま帰ってくればいい」
「忘れなくてもいいさ。わからなくてもいい。何も置いてこなくて構わん。全部を抱えたまま、ここへ帰ってくればいい」
「志郎」
「また、出かけることはできるさ」
そして、真田はゆっくりと両手を広げた。
「だから。柚香、帰っておいで」
目を瞠った柚香は、一瞬の後、まるでその言葉に引き込まれるように、広げた腕の中へと身を投げた。
大きな腕が柚香を包む。
その胸は広く、あたたかかった。
「志郎、――志郎。志郎」
柚香は背に回した両手に力を込めた。
腕の中の華奢な肢体とオレンジの香りが、真田の裡に充足の想いを満たしていく。
「おかえり」と小さな声を腕の中に降らせると、「ただいま」と囁きが返った。
力の限りに抱きしめた。